マーカーは土佐藩山内家築地邸跡の説明板です。
関連リンク – 土佐藩山内家上屋敷跡(東京フォーラム)、土佐藩山内家中屋敷跡、土佐藩山内家下屋敷跡案内板、山内豊信(容堂)墓所、土佐藩山内家深川下屋敷跡(中浜万次郎住居跡・左行秀鍛錬場跡)
[土佐高知城主山内家(二四万五千石)の中屋敷。
文政九年(一八二六)三月拝領。逐次隣接の邸地を加えて拡張された。東京市史稿、市街篇三六巻などから屋敷受渡の記録を拾ってみると、
文政九戌年三月二日 本多豊後守拝領中屋敷 木挽町築地弐千拾五 松平土佐守江 (三六四頁)
文政九年五月六日 安藤筑後守拝領屋敷 木挽町築地四百坪 松平土佐守江 (三六七頁)
文政九年十二月十日 岡部因幡守拝領屋敷 木挽町築地千四百四拾五坪余 松平土佐守江 (四六〇頁)
文政一三年寅年、松平土佐守屋敷間東西之道敷同人屋敷之添地ニ囲込、一屋敷ニ成。 (『御府内沿革図書』)
また、屋敷渡絵図註文(市街篇三七 – 二六〇頁)に、「文政一三年八月廿五日、鉄砲洲松平土佐守屋敷御差加地所坪数三百拾六坪」とあるから、邸地の坪数は総計四、〇七六坪ほどあったわけである。現在の築地一丁目一から六番地、同二丁目一・六・七・八・九番地を包括する広さで、中央区役所も、築地警察署もその旧邸跡地内にある。 (「23.切絵図考証一〇 安藤菊二(PDFファイル:1495.91 KB)」より)]
「国立国会図書館デジタル化資料 -御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号76/147「当時(文化五年・1808年)之形」の右上に松平宮内少輔、本多豊後守、安藤筑後守、岡部因幡守屋敷地が描かれています。文政九年に松平宮内少輔屋敷地が最初に土佐藩屋敷地になります。コマ番号77/147「文政十三(1830)年 天保五(1834)年之形」で松平土佐守となっていて、敷地中央に旧道が描かれています。)
土佐藩築地邸跡
[この地は、江戸時代前期に埋立てられ、武家地や町人地となりました。文政九年(1826)、この一帯の土地がまとめられ、土佐藩山内家が拝領しました。山内家は中屋敷ないし下屋敷にしていたようで、幕末までこの地にありました。
土佐藩は初代山内一豊から十六代山内豊範まで続きました。幕末の変革期に有名な山内豊信(容堂)は十五代で、ここに屋敷を構えていたときに藩主でした。
豊信は、安政五年(1858)の条約勅許や将軍の継嗣問題において、一橋慶喜(後の十五代将軍)を擁立する一橋派に協力しましたが、徳川家茂(後の十四代将軍)を推す大老井伊直弼に敗北し、豊信は藩主を退きました。この後、井伊直弼が暗殺されるなど、政情は混乱していきます。そのような中で、豊信率いる土佐藩は、幕府に大政奉還を働きかけてこれを実現し、後の版籍奉還、廃藩置県に至るまで、薩摩藩、長州藩と並んで明治維新の先頭に立っていました。
なお、幕末に土佐勤王党を結成して幕府打倒を掲げた武市半平太は、ここから程近い士学館道場(現銀座一丁目、京橋公園辺り)に通っていました。また、薩長同盟を成立させ、大政奉還を提言した坂本龍馬は、安政三年(1856)から同五年ころ、剣術修行のため江戸に来ていました。龍馬はこの地の土佐藩築地邸に寄宿しながら、桶町(現八重洲二丁目・京橋二丁目の一部)にあったとされる千葉定吉道場に通っていたようです。
平成22年3月 中央区教育委員会]
土佐藩築地邸資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図中央左に松平土佐守下屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九(1838)年」(絵図中央上に「松平土佐守」と描かれています。)
カメラ南西方向、植え込みの前に土佐藩築地邸跡の説明板が設置されています。