堀利堅屋敷跡

マーカーはカメラ位置です。

堀利堅
[堀 利堅(ほり としかた)は、江戸時代後期の幕臣である。通称は廉吉、小四郎。官位伊賀守、伊豆守。妻は林述斎の女。堀利煕は四男、堀利孟は孫。義理の兄弟(林述斎の子)には鳥居耀蔵、林復斎ら。
目付などを務めた後、天保7年(1836年)に大坂西町奉行となるが、翌8年(1837年)には大塩平八郎の乱が勃発する。利堅は東町奉行跡部良弼とともにその鎮圧に当たったものの、乗馬が銃声に驚いたために落馬するという不名誉な逸話が残っている。
その後、弘化2年(1845年)には大目付となり、安政5年(1858年)に留守居に転じる。万延元年(1860年)には子の利煕が切腹した。文久2年(1862年)、隠居して孫の利孟に家督を譲った。  (wikipedia・堀利堅より)]

堀利煕
[堀 利煕(ほり としひろ、文政元年6月19日(1818年7月21日) – 万延元年11月6日(1860年12月17日))は、江戸時代末期(幕末)の旗本幕臣。通称は織部、織部正、省之助。字は欽文、士績虎。号は有梅、梅花山人。初名は利忠。父は大目付堀利堅、母は林述斎の娘。母方のおじに鳥居耀蔵林復斎、従兄弟に岩瀬忠震がいる。
嘉永7年(1854年)、箱館奉行となり、樺太蝦夷地の調査・巡回を行った。同行者に玉虫左太夫榎本武揚郷純造島義勇がいる。安政5年(1858年)には新設された外国奉行に就任、神奈川奉行も兼任して諸外国大使との交渉に尽力した。横浜港開港に尽力し、通商条約では日本全権の1人として署名している。
万延元年(1860年)、プロイセンの外交官フリードリヒ・アルブレヒト・ツー・オイレンブルクとの条約交渉を行なっていたが、このときに利煕がプロイセンと裏交渉しているという風聞、並びにプロイセンではなくドイツ連邦(当時、ドイツはまだ統一されておらず、利煕がプロイセン一国だけではなくオーストリアとも秘密交渉を行なっていたというまことしやかな風聞が流れたらしい)との秘密交渉などが行なわれていたことなどが露見して、幕府から追及される。利煕はそれに対して何の弁解も行なわず、プロイセンとの条約締結直前に切腹した。享年43。
死後、村垣範正がオイレンブルクとの交渉を引き継いで日普修好通商条約を結んだ。  (wikipedia・堀利煕より)]

堀利堅屋敷資料リンク
国際日本文化研究センター – 築地八町堀日本橋南繪圖」[安政4年(1857年)尾張屋版絵図中左端付近・奥平大膳大夫の二屋敷隣に堀伊豆守と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号67/147・当時之形地図中央上に堀伊豆守と記述されています。)

カメラ位置は銀座東7丁目交差点で、カメラ南方向に堀利堅屋敷があったようです。

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