士学館跡

マーカーは士学館跡です。

蜊(あさり)河岸
[所在地 中央区銀座一丁目二五~二七番地域
 かつて、この地より北側の新富一丁目一番・銀座一丁目二六番付近では、北から流れる楓川(もみじがわ)・西から流れる京橋川・そして南西へと流れる三十間堀が交差していました。それぞれの川筋には、弾正橋・白魚橋・真福寺橋の三つの橋が架かっていたことから、この付近は「三つ橋」と呼ばれていました。
 蜊河岸は、江戸時代以来、三つ橋付近の河岸地の里俗名でしたが、明治十三年(一八八〇)に公布された東京府達によって、三十間堀に架かる真福寺橋から月慈方面へと南に延びる東岸の河岸地の正式名称となりました。
 江戸時代後期には、江戸三代道場のひとつ、鏡新明智流(きょうしんめいちりゅう)の剣客桃井春蔵の「士学館」がおかれ、嘉永六年(一八五三)再版の『近江屋板切絵図』には、蜊河岸の南端に、「桃井春蔵」の名を確認することができます。
平成二十年三月
中央区教育委員会  (「蜊(あさり)河岸 – Monumento(モニュメント)」より)]

士学館跡
[大富町のあさり河岸には鏡新明智流の剣術師範、桃井家の道場があった。初代は八郎左衛門直由。二代は春蔵直一、三代は春蔵直雄といった。直雄は、慶応2年5月講武所の剣術教師出役から師範役並に進んで、富士見宝蔵番格の待遇を受け、後、遊撃隊頭取並となり、3年11月には京都で譜代を仰付けられて切米百俵を給せられた。(安藤直方著『講武所』201頁)
『狂歌江都名所図会』に、あさり河岸付近を描いた略画の挿絵があって、桃井道場と注記した河岸添いの家を書き次の狂歌を載せる。
「桃井の弟子も三とせで身が入て、其たち筋もしゆくす剣術  道草
 夕立のかかりし跡のあさりがしたたき出してぞ見ゆる貝がら 春道]
近吾堂版切絵図には大富町の河岸の右寄りに「桃井春蔵」と刻してある。
あさり河岸の地は、関東大震災後、築地川と楓川とを結ぶ連絡運河が掘られた際に、掘り去って運河敷地になってしまったから、桃井道場の跡はここぞと指し示すこともできなくなってしまった。  (「東京都中央区立京橋図書館 – 郷土室だより – 29.切絵図考証一六 安藤菊二(PDFファイル:1328.58 KB)」より)]

桃井道場については「31.切絵図考証一八 安藤菊二(PDFファイル:1022.42 KB)」でも紹介されています。

[士学館(しがくかん)は、桃井直由(初代 桃井春蔵)が開いた道場。鏡新明智流を教えていた。桃井直正(4代目 桃井春蔵)は、「技の千葉」(北辰一刀流玄武館千葉栄次郎)、「力の斎藤」(神道無念流練兵館斎藤新太郎)と並び、「位の桃井」と称され、後に士学館は幕末江戸三大道場の一つに数えられた。
鏡新明智流を創始した桃井直由(初代 桃井春蔵)が、安永2年(1773年)、江戸日本橋南茅場町(現 東京都中央区日本橋茅場町)の長屋を道場としたのが士学館の始まりである。粗末な道場であったという。
直由死去後、養子直一が2代目 桃井春蔵を継ぐ。直一は道場を南八丁堀大富町蜊河岸(現 東京都中央区新富)に移転させた。後に有名になる、あさり河岸の士学館である。
三代目直雄死去後、婿養子直正が4代目 桃井春蔵を継ぐ。直正の代で士学館は栄え、後に幕末江戸三大道場の一つに数えられる。安政3年(1856年)、土佐国から武市瑞山岡田以蔵らを伴い江戸へ出て、士学館に入門する。武市の腕前と人物を高く評価した直正は、まもなく武市に免許を与え、塾頭に任じる。武市は生活の乱れている門人たちを注意して風紀を正した。文久2年(1862年)、直正は江戸幕府から与力格二百俵に登用され幕臣となり、翌年には講武所剣術教授方出役に任じられる。  (wikipedia・士学館より)]

京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」・「bunko10_08631_p0002.jpg」[絵図左下・大富町に桃井春蔵と記述されている。]

桃井道場(士学館)跡 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は京橋公園で、カメラ東北東方向が浅利河岸の案内板があります。

4代目桃井春蔵
[桃井 春蔵(もものい しゅんぞう、文政8年(1825年) – 明治18年(1885年)12月3日)は、江戸時代後期から明治時代の武士、剣術家(鏡新明智流第4代)。旧姓は田中、幼名は甚助、名は直正。「桃井春蔵」の名は士学館道場で代々受け継がれる名跡であり、直正は4代目桃井春蔵である。「品格随一」の剣術といわれた。
駿河国沼津藩藩士・田中豊秋の次男として生まれる。沼津で直心影流剣術を2年ほど学び、天保9年(1838年)に江戸に出て、14歳で鏡新明智流の道場士学館(3代目桃井春蔵)に入門。17歳で初伝目録を得て、才能を師匠に見込まれ、その婿養子に取り立てられる。23歳で皆伝、25歳で奥伝を得て、嘉永5年(1852年)、27歳で士学館4代目桃井春蔵を継ぐ。4代目で士学館道場は栄え、後に斎藤弥九郎練兵館神道無念流)や千葉周作玄武館北辰一刀流)と並んで幕末江戸三大道場の一つに数えられる。「位は桃井、技は千葉、力は斎藤」といわれた。安政3年(1856年)、土佐から武市瑞山岡田以蔵らを伴って江戸に出てきて、士学館に入門する。春蔵は武市の腕前と人物を高く評価して、塾頭に任じる。文久2年(1862年)、幕府から与力格二百俵に登用され幕臣となり、翌年には講武所剣術教授方出役に任じられる。慶応元年(1865年)12月暮、稽古納めを終えた春蔵と高弟8人が市谷田町を歩いていると、新徴組の隊列と出くわす。隊士たちが「(道の)片側に寄れ、もっと寄れ」と凄んだため、高弟のひとり・上田馬之助が怒ると、隊士たちが抜刀し、あわや斬り合いになりかける。そこで春蔵が「私は公儀与力・講武所教授方桃井春蔵という者、ここにいるのは士学館の弟子である。ご希望ならばお相手する」と言うと、新徴組が謝罪してその場は収まった。慶応3年(1867年)、幕府陸軍遊撃隊頭取並に任じられ、将軍・徳川慶喜上洛に護衛役として同行。大坂玉造臨時講武所剣術師範となる。しかし同年、大坂城での軍議で戊辰戦争の開戦に反対し、開戦派の幕府軍人と対立して幕府軍を離脱。幕府軍人に命を狙われることとなり、士学館の高弟数名とともに大雪の夜、南河内の幸雲院という寺に落ち延びる。翌慶応4年1月3日(1868年1月27日)に鳥羽・伏見の戦いが開戦。幕軍は敗れ、将軍・慶喜は江戸へ逃亡。大坂城は炎上し、京坂は官軍に占拠された。同年5月、幕府から桃井に彰義隊への入隊勧誘があったがこれを断り、逆に官軍からの要請で川崎東照宮(建国寺)境内(現・大阪市北区天満)に道場を建て、大坂の治安維持に当たるの兵に撃剣を指導する。同年、大阪府が設置されると、大坂与力同心を中心とする府兵80人が治安維持を担当することとなり、浪花隊(浪華隊)と名乗る。春蔵は浪花隊の監軍兼撃剣師範に就任し、事実上の隊長となり隊を率いる。翌1869年(明治2年)、隊員は600人以上に増えた。この頃、北桃谷町(現大阪市中央区)に士学館道場を再興。高弟で浪花隊隊員でもある秋山多吉郎(当時桃井)を師範代塾頭に置いた。浪花隊は1870年(明治3年)に解散し、後に大阪府警察部となる。浪花隊解散後、春蔵は大阪府権大属を経て1874年(明治7年)10月、堺県等外吏になり応神天皇陵仲姫皇后陵の陵掌を務め、1875年(明治8年)、誉田八幡宮祠官となり境内に道場を建て撃剣や儒学を教授した。晩年は神に仕える穏やかな生活を送ったが、刃物で襲いかかってきた強盗3人を大和川に投げ込んだり、狩猟中に誤って応神天皇陵に発砲した大阪府知事の胸ぐらをつかんで怒鳴りつけるなど、豪快な逸話も残している。1884年(明治17年)11月、大阪府御用掛剣道指南方に任ぜられたが、1885年(明治18年)、コレラで死去した。享年61。  (wikipedia・桃井春蔵より)]

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