尼崎藩松平(桜井)家上屋敷跡

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関連リンク – 尼崎藩松平(桜井)家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP805・コマ番号446/553から尼崎藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 鉄砲洲」がこの地になります。

[本邸について『江戸藩邸沿革』に記すところは次のごとくである。
「尼崎藩 子爵桜井家 旧封四万石
一、上屋敷 鉄砲洲 京橋区新栄町四 五丁目 新湊町四 五丁目
唱替、元禄初(1688)年、坪数未詳。
 元下屋敷ナリ。元禄以降各武鑑及諸地図ニ載ス。
一、下屋敷 鉄砲洲
拝領、万治元(1658)年六月廿五日。唱替、元禄十(1697)年五月十九日、坪数未詳。
年録、万治元年六月廿五日松平遠江守右屋鋪被下侯旨也。
元禄十年唱替上屋敷ト成ル。上屋敷ノ項参照。  (「29.切絵図考証一六 安藤菊二(PDFファイル:1328.58 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号86/147「延宝年中(1673年-1681年)之形」右ページに松平遠江守(信濃国飯山藩松平忠倶)と記述されています。コマ番号87/147「元禄年中(1688年-1704年)之形」に松平遠江守(摂津国尼崎藩松平忠喬)と記述されています。以下コマ番号96/147まで尼崎藩松平遠江守が記述されています。)

尼崎藩松平(桜井)家
[尼崎藩(あまがさきはん)は、摂津国a href=”https://ja.wikipedia.org/wiki/川辺郡”>川辺郡・武庫郡菟原郡・八部郡(現在の兵庫県尼崎市宝塚市西宮市芦屋市神戸市南部・伊丹市の一部・川西市猪名川町)を領した藩。藩庁は尼崎城
青山家4代幸秀正徳元年(1711年)に信濃国飯山藩へ転封となり、松平忠喬遠江国掛川藩から入部し、青山家の体制を引き継いだが、武庫郡・菟原郡・八部郡内の計26か村が幕府に召し上げられ、4万石に減少した。さらに今津、西宮、御影、兵庫などの裕福な36か村(この地域では酒造業が盛んとなっていた。灘五郷参照)が幕府に召し上げられ、引き換えに播磨国内各地の71か村が与えられた。石高は5千石の増加となったものの、実収入は激減した上に、藩領が分断されたことから領国経営が機能しなくなり、藩政は傾いていった。
慶応4年(1868年)1月、朝廷に恭順を示して領地を安堵され、同年2月、新政府の指示により桜井に改姓した。
最後の藩主・忠興は後に西南戦争の際、博愛社(後の赤十字社)を設立した一人となった。  (wikipedia・尼崎藩より)]

御府内往還其外沿革図書. 七之二(文化五年・1808年)」[絵図四つ切右下・松平遠江守(松平忠宝)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央下に松平遠江守(松平忠栄)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は居留地中央通りで、カメラ南方向、西方向が尼崎藩松平(桜井)家上屋敷跡になります。