マーカーは尾張徳川家下屋敷(蔵屋敷)跡です。
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尾張徳川家下屋敷(蔵屋敷)
[明暦2(1656)年3月7日、市ヶ谷に屋敷地が下賜され、代替に麹町・赤坂(中)・千駄ヶ谷茶屋の三屋敷が上地となり、翌3(1657)年5月14日、鼠穴上屋敷が上地されて代替に麹町屋敷の再下賜と市谷屋敷の添地が与えられ、同月27日には八丁堀蔵屋敷が上地となり木挽町築地に土地が下賜された。 (「大名江戸屋敷の機能的秩序 ー尾張藩を素材としてー」より)]
[邸地は、宝永四年(一七〇七)に一部を上地し、寛保二年(一七四二)にまた浜通りに増地を受けたりして、最終的には二七,ニ五八坪ほどの面積になっていた。明治以降の実測によると、邸内中央部には邸地面積の過半を占める小判型の大池が描かれている。池の南には汐留川と通ずる小渠あって、船の出入りには便しており、池の四周には屈曲参差の変化が設けられていないなど、もっぱら実用本位に出来ているのは、当初から蔵屋敷として築造されていたことを示している。
邸地への連絡路としては、築地川と汐留川の会する処、奥平大膳大夫の本邸脇の往還に出る橋(尾張橋)が架けられた。初めは公儀お懸替の橋であったが、元禄元年(一六八八)からは、尾張家の懸直し橋と改められ、宝永五年(一七〇九)からは隣屋敷の稲葉家でも負担することになり、稲葉家からも知行高割の費用を拠出することとなった。もっとも、破損修繕の際は尾張藩の全額負担であった。
この邸地には、昔は居館もあったが延宝八年(一六八〇)の大風に倒壊してしまったと伝えている。お茶屋のできたのは寛保元年(一七四一)のことである。
上水道の引けたのは延宝五年(一六七七)のことで、汐留橋際から水を引くので年々水銀(上水使用料)を払っていた。
水道普請で入費が懸かった時の出金は組合年番の者から言って次第に支払う。元文五年(一七四〇)に築地川沿い町が出来て享保の頃にはすでに上水を用いておらず、汐留橋際にあった水桝も、延享元年(一七四四)には取り払われて埋桝となったが、なお、「上水御出銀」は昔どおりに支払われていた。
屋敷で上水を使用しなくなったのは、屋敷内の井戸水で間に合ったからである。この井戸水の水質はたいへんよかったので、近所のお旗本の川窪主膳・桜井久太夫・妻木斎宮・有馬次郎兵衛・大嶋織部の邸から、下男が水汲みにきたとのことで、水汲み札が渡してあったという。 (「8.築地地区の蔵屋敷 尾州と芸州の蔵屋敷 安藤菊二(PDFファイル:1042.57 KB)」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七之二[文化五(1808)年]」[絵図四つ切左下に「尾張殿」と描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」[コマ番号130/147・「延宝年中(1673年-1681年)之形」絵図上に尾張殿と描かれています。以下コマ番号131/147-136/147にも描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図[嘉永二(1849)年]」(絵図中央左端に尾張殿下屋敷が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – 五千分一東京図測量原図 : 東京府武蔵国京橋区木挽町近傍(明治17・1884年)」(地図右下に尾張徳川家下屋敷(蔵屋敷)跡が描かれています。)
「国際日本文化研究センター – 五千分一東京図測量原図 : 東京府武蔵国芝区芝濱崎町近傍(明治17・1884年)」(地図右上に尾張徳川家下屋敷(蔵屋敷)跡が描かれています。)
カメラ位置は元青果門交差点で、この付近一帯が尾張徳川家下屋敷(蔵屋敷)跡になります。