山東京伝が住んだ京橋銀座一丁目

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山東京伝
[「江戸京橋銀座一丁目。お上りなれば左りの方。お下りなれば右りの方。表は板塀に竹を植え込み、隠者めかした山東京伝。内へ入れば、たゞの店。京屋伝蔵方にて・・・」(山東京山『煙草二抄』)
 江戸戯作の第一人者、ベストセラー作家の山東京伝は、数え13歳から56歳の没年まで銀座1丁目の住人でしたが、寛政5年(1793)秋、33歳のとき、京橋銀座一丁目東側橋の方の木戸際に借家して間口9尺奥行2間、紙製煙草入れの店を開きます。浮世絵師北尾政演としても評価の高い京伝自身デザインの新形商品が大当たり、寛政7年には同じ銀座1丁目、父伝左衛門が家主を務める医者の家蔵を買って移転、間口3間の広い店になりました。
 京伝は戯作の中でも店を宣伝、喜多川歌麿は京伝店の店頭を大判錦絵に描き、京伝に引き立てられた曲亭馬琴もその作中で「今時、京伝店の煙管・煙草入れを持たない者と薩摩芋・唐茄子の嫌いな女はいない」などと提灯持ちをしています。自作の引札(ちらし)も評判を呼び、判じ物仕立てになったものもありました。(判じ物とは、狐に背負われた子の絵で「古今」、老僧が逆さになって「候(そうろう)」と読ませる類。明治になって幸田露伴が解読文『京伝の広告』を書いています。) 繁昌につれて扱う商品も開業時は紙製煙草入れのみだったのが、楊枝入れ・煙管・鼻紙袋から懐中物一式、読書丸・奇応丸などの薬類、白牡丹など化粧品と増え、「江戸じまん名代名物ひとり案内」という番付には化粧品・小間物・薬類に「京はし 京傳 烟草入」が前頭に挙げられています。  (「山東京伝 「銀座的人物」、銀座一丁目に開店 – 中央区観光協会特派員 」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図

カメラ位置は銀座通り口で、カメラ南方向が銀座1丁目になります。

※ 下記「山東京伝wikipedia」の作品の一部は、デジタル図書にリンクしてあります。
山東京伝
[山東 京伝(さんとう きょうでん、宝暦11年8月15日(1761年9月13日) – 文化13年9月7日(1816年10月27日)は江戸時代浮世絵師、戯作者。本名は岩瀬醒(さむる)。一説に排田または灰田。狂歌名を身軽折輔と号した。幼名は甚太郎。通称は京屋伝蔵または田蔵。字は伯慶。後に酉星(有儕)。山東庵、山東窟、山東軒、珊洞散士、鼯鼠翁、臍下逸人、洛橋陳人、甘谷、菊亭、菊軒、菊花亭と号す。父は岩瀬伝左衛門。合巻作者の山東京山は実弟。黄表紙・狂歌作者の黒鳶式部(実名よね)は実妹。
寛政の改革手鎖の処罰を受けたことで知られる。東京都墨田区両国回向院に「岩瀬醒墓」がある。法名は弁誉智海京伝信士。京伝が没した翌年、弟の京山が浅草寺境内に「机塚」の碑を建立。
生涯
江戸深川の出身。生家岩瀬家は木場の質屋だったという。
明和6年(1769年)手習いを始める。このとき父からもらった机を生涯愛用する。またこの頃、「巴山人」の印章も父から与えられる。
安永4年(1775年)北尾重政に浮世絵を学ぶ。画号を北尾政演(きたおまさのぶ)と称する。以後、多くの戯作・狂言本などに挿絵を描く。この頃から芝全交との親交を深める。
●安永9年(1780年)
   ●黄表紙娘敵討古郷錦(むすめかたきうちこきょうのにしき)』・『米饅頭始(よねまんじゅうのはじまり)』刊行。
天明2年(1782年)蔦屋重三郎方で大田南畝恋川春町唐来参和らと会し吉原で遊ぶ。
   ●黄表紙『御存商売物(ごぞんじのしょうばいもの)』刊行。この年以降、山東京伝と称する。
●天明3年(1783年)大田南畝の母60歳の祝宴に参加する。『落栗庵狂歌月並摺』に自作狂歌入集する。この頃から万象亭(森島中良)と親交を深める。
   ●美人画集『青楼名君自筆集』刊行。
   ●黄表紙『客人女郎』刊行。
●天明4年(1784年)この頃から5代目市川団十郎と親交を深める。
   ●図案集『小紋裁』、手拭の図案集『たなぐひあはせ』、艶本『床喜草』刊行。
   ●黄表紙『不案配即席料理(ふあんばいそくせきりょり)』刊行。
●天明5年(1785年)
   ●艶本『艶本枕言葉』刊行。
   ●黄表紙『江戸生艶気樺焼えどうまれうわきのかばやき)』刊行。
   ●洒落本『息子部屋』刊行。
●天明6年(1786年)新内めりやす「すがほ」を作詞する。
   ●図案集『小紋新法』刊行。
   ●黄表紙『江戸春一夜千両(えどのはるいちやせんりょう)』『明牟七変目景清(あくしちへんめかげよ)』刊行。
   ●洒落本『客衆肝照子(きゃくしゅきもかがみ)』刊行。
●天明7年(1787年)
   ●洒落本『古契三娼こけいのさんしょう)』『総籬(そうまがき)』刊行。
   ●見立て本『初衣抄』刊行。
●天明8年(1788年)蔦屋重三郎らと日光・中禅寺に旅行に行く。妹の黒鳶式部(実名よね)が死去。
   ●黄表紙『時代世話二挺鼓じだいせわにちょうつづみ)』『会通己恍惚照子(かいつううぬぼれかがみ)』『小倉山時雨珍説おぐらやましぐれのちんせつ)』刊行。
   ●洒落本『吉原楊枝(よしわらようじ)』『傾城觽(けいせいけい)』刊行。
●天明9・寛政元年(1789年)黄表紙本に描いた挿絵が咎めを受け過料処分となる。
   ●黄表紙『真実情文桜(しんじつせいもんざくら)』『碑文谷利生四竹節(ひもんやりしょうのよつだけぶし)』『孔子縞于時藍染(こうしじまときにあいぞめ)』『奇事中洲話(きじもなかずわ)』『花東頼朝公御入(はなのおえどよりともこうおんいり)』刊行。
洒落本『廓大帳(くるわのだいちょう)』『新造図彙(しんぞうずい)』『志羅川夜船(しらかわよふね)』『通気粋語伝(つうぎすいごでん)』刊行。
●寛政2年(1790年)遊女(番頭新造)菊園を妻に迎える。曲亭馬琴が訪れ入門を乞う。過料に処せられたことを理由に戯作執筆をやめようと考えるが、蔦屋重三郎の懇請で思いとどまる。
   ●図案集『小紋雅話』刊行。
   ●黄表紙『玉磨青砥銭(たまみがくあおとがぜに)』『照子浄頗梨(かがみのじょうはり)』『山鶗鴂蹴転破瓜(やまほとぎすけころのみずあげ)』『心学早染艸(しんがくはやそめくさ)』『京伝憂世之酔醒(きょうでんうきよのえいさめ)』刊行。
   ●洒落本『京伝予誌(きょうでんよし)』『繁千話(しげしげちわ)』『傾城買四十八手けいせいかいしじゅうはって)』刊行。
   ●児童向けの『通俗大聖伝』刊行。
●寛政3年(1791年)洒落本3作が禁令を犯したという理由で筆禍を受け、手鎖50日の処分を受ける。自宅を洪水に見舞われた曲亭馬琴が逗留し執筆を助ける。筆禍後は思い屈したため、曲亭馬琴・感和亭鬼武らがしばしば代作を行なう。この頃から万象亭(森島中良)と疎遠になる。
   ●黄表紙『人間一生胸算用(にんげんいっしょうむなさんよう)』『箱入娘面屋人形(はこいりむすめめんやにんぎょう)』刊行。
   ●洒落本『仕懸文庫(しかけぶんこ)』『娼妓絹籭(しょうぎきぬぶるい)』『錦の裏』刊行。
●寛政4年(1792年)曲亭馬琴を蔦屋重三郎の手代として推薦する。両国柳橋で書画会を開催する。
   ●黄表紙『梁山一歩談(りょうざんいっぽだん)』『天剛垂楊柳(てんごうすいようりゅう)』『女将門七人化粧(おんなまさかどひちにんげしょう)』刊行。
●寛政5年(1793年)書画会の収益を元手に銀座に京屋伝蔵店(京伝店)を開店する。妻の菊園が病死する。
   ●黄表紙『貧富両道中之記(ひんぷくりょうどうちゅうのき)』『堪忍袋緒〆善玉(かんにんぶくろおじめのぜんだま)』刊行。
   ●滑稽図案集『松魚智恵袋(かつおのちえぶくろ)』刊行。
●寛政6年(1794年)この頃より書肆より潤筆料(原稿料)を得るようになる。
   ●滑稽図案集『絵兄弟』刊行。
   ●黄表紙『忠臣蔵前世幕無(ちゅうしんぐらぜんぜのまくなし)』『忠臣蔵即席料理』『金々先生造化夢(きんきんせんせいぞうかのゆめ)』刊行。
●寛政7年(1795年)父・伝左衛門が隠居する。越後国鈴木牧之から随筆出版に関して相談され、以後書簡が取り交わされるようになる。
●寛政8年(1796年)
   ●黄表紙『人心鏡写絵(ひとごころかがみのうつしえ)』刊行。
●寛政9年(1797年)蔦屋重三郎が死去。
   ●黄表紙『三歳図会稚講釈(さんさいずえおさなこうしゃく)』『虚生実草紙(うそからでたまことぞうし)』刊行。
●寛政10年(1798年)
   ●黄表紙『凸凹話(たかびくはなし)』『百化帖準擬本草笔津虫音禽(ひゃくかちょうみたてほんぞうふでつむしこえのとりどり)』刊行。
●寛政11年(1799年)父・伝左衛門が病死する。
   ●黄表紙『仮名手本胸之鏡(かなでほんむねのかがみ)』『京伝主十六利鑑(きょうでんすじゅうろくりかん)』刊行。
   ●読本『忠臣水滸伝 前篇』刊行。
●寛政12年(1800年)遊女玉の井(百合)を妻に迎える。相模浦賀・伊豆三島・駿河沼津などを旅行する。
●寛政13年・享和元年(1801年)
   ●黄表紙『這奇的見勢物語(こはめずらしいみせものがたり)』刊行。
   ●読本『忠臣水滸伝 後篇』刊行。
享和2年(1802年)
   ●考証随筆『浮世絵類考』刊行。
   ●黄表紙『通気智之銭光記(つきぢのぜんこうき)』『早業七人前(はやわざしちにんまえ)』『呑込多霊宝縁記(のみこんだれいほうえんぎ)』『枯樹花大悲利益(かれきのはなだいひのりやく)』刊行。
●享和3年(1803年)浅草伝法院における善光寺開帳に出店を出す。烏亭焉馬(うていえんば。落語中興の祖)60歳の祝宴に参加する。妻百合の妹滝を養女に迎える。
   ●考証随筆『捜奇録』、見立て絵本『奇妙図彙』『怪談摸摸夢字彙(かいだんももんじい)』刊行。
   ●黄表紙『悟衟迷所独案内(ごどうめいしょひとりあんない)』『裡家算見通坐敷(うらやさんみとおしざしき)』刊行。
   ●読本『安積沼(あさかのぬま)』刊行。
●享和4年・文化元年(1804年)この頃から曲亭馬琴の読本と大きな影響を与え合うようになる。
   ●考証随筆『大尽舞考証』『近世奇跡考』刊行。
   ●黄表紙『作者胎内十月図(さくしゃたいないとつきのず)』『江戸砂子娘敵討(えどすなごむすめかたきうち)』刊行。
   ●読本『優曇華物語』刊行。
●文化2年(1805年)
   ●読本『曙草紙』『善知安方忠義伝(うとうやすかたちゅうぎでん)』刊行。
   ●合巻『残灯奇譚案机塵(ざんとうきだんつくえのちり)』刊行。
●文化3年(1806年)火災にあう。
   ●読本『昔話稲妻表紙(むかしがたりいなづまひょうし)』刊行。
   ●合巻『敵討両輪車(かたきうちふたつぐるま)』刊行。
●文化4年(1807年)絵入読本改掛肝煎名主に対して曲亭馬琴と連名で口上書を提出する。烏亭焉馬式亭三馬らの求めに応じ「作者画工番付」の絶版を版元と交渉する。
   ●読本『梅花氷裂(ばいかひょうれつ)』刊行。
   ●合巻『於六櫛木曽仇討(おろくぐしきそのあだうち)』『敵討岡崎女郎衆(かたきうちおかざきじょろしゅ)』『於杉於玉ニ身之仇討(おすぎおたまふたみのあだうち)』刊行。
●文化5年(1808年)この頃から、鶴屋南北歌舞伎脚本を下敷きにした合巻が多くなる。
   ●合巻『女達三日月於僊(おんなだてみかづきおせん)』『糸車九尾狐(いとぐるまきゅうびのきつね)』『岩井櫛粂野仇討(いわいぐしくめののあだうち)』『敵討天竺徳兵衛(かたきうちてんじくとくべい)』『絞染五郎強勢談(しぼりそめごろうごうせいばなし)』『伉侠双蛺蜨(おとこだてふたつちょうちょう』刊行。
●文化6年(1809年)
   ●滑稽本『腹筋逢夢石(はらすじおうむせき)』刊行。
   ●読本『浮牡丹全伝(うきぼたんぜんでん)』『本朝酔菩提全伝(ほんちょうすいぼだいぜんでん)』刊行。
   ●合巻『岩戸神楽剣威徳(いわとかぐらつるぎのいとく)』『累井筒紅葉打敷(かさねいづつもみじのうちしき)』『万福長者栄華談(まんぷくちょうじゃえいがものがたり)』『桜姫筆の再咲(さくらひめふでのにどざき)』『志道軒往古講釈(しどうけんむかしこうしゃく)』刊行。
●文化7年(1810年)
   ●滑稽本『坐敷芸忠臣蔵』刊行。
   ●合巻『糸桜本朝文粋(いとざくらほんちょうぶんずい)』『戯場花牡丹燈籠(かぶきのはなぼたんどうろう)』『うとふの俤』刊行。
●文化8年(1811年)式亭三馬主催の書画会で世話役をつとめる。雲茶会(古物・古画鑑賞会)に参加する。
   ●合巻『男草履打(おとこぞうりうち)』『暁傘時雨古手屋(あかつきがさしぐれのふるてや)』刊行。
●文化9年(1812年)養女滝が病死する。妻百合のために髪結いの株を購入する。
   ●合巻『薄雲猫旧話(うすぐもがねこのふるさと)』『釣狐昔塗笠(つりきつねむかしぬりかさ)』『春相撲花之錦絵(はるすもうはなのにしきえ)』刊行。
●文化10年(1813年)半身が痛む病気となり熱海などで療治をする。桑名藩黒沢翁満に戯作出版を思いとどまるよう書簡を送る。
   ●読本『双蝶記(そうちょうき)』刊行。
   ●合巻『婚礼累箪笥(こんれいかさねだんす)』『ヘマムシ入道昔話』『重井筒娘千代能(かさねいづつむすめちよのう)』『磯馴松金糸腰蓑(そなれまつきんしのこしみの)』刊行。
●文化11年(1814年)
   ●合巻『会談三組盃(かいだんみつぐみさかずき)』『娘清玄振袖日記(むすめせいげんふりそでにっき)』刊行。
●文化12年(1815年)
   ●考証随筆『骨董集』
   ●合巻『女達磨之由来文法語(おんなだるまのゆらいふみほうご)』刊行。
●文化13年(1816年)胸痛の発作(脚気衝心?)が起き、急死する。両国回向院で葬儀が行なわれる。
   ●考証随筆『むくむくの小袖』刊行。
   ●合巻『琴声美人伝』刊行。
●文化14年(1817年)妻百合の言動が錯乱、弟京山により物置に監禁される。
   ●合巻『長髦姿蛇柳(ながかもじすがたのじゃやなぎ)』『袖之梅月土手節(そでのうめつきのどてぶし)』刊行。
●文化15年・文政元年(1818年)妻百合が死去。  (wikipedia・山東京伝より)]

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