岡藩中川家上屋敷跡

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関連リンク- 岡藩中川家中屋敷跡西郷山公園(西郷従道邸跡、岡藩中川家抱え屋敷跡)

[中川家の鉄砲洲の上屋敷については『江戸藩邸沿革』(P436・コマ番号262/553から)に記すところがあるが、複雑で分かりにくい。要を摘まんで記すと、
文政十二(1829)年十二月二十九日。西尾壱岐守中屋敷三千二百五十八坪を相対替で取得。(相対替屋敷書抜)
同年同月同日、堀田主馬拝領屋敷鉄砲洲千四百四坪。堀田主税拝領屋敷同所五百坪を相対替で取得。
天保二(1831)年八月五日道式付替により二百七十坪余が中川家に囲込まれる。
天保七(1836)年四月十一日、鉄砲洲築地千七百六十八坪余が中川修理大夫屋敷になる。
同年五月二十二日、脇坂中務大輔上地拼有来道式共、鉄砲洲築地二千二百二十八坪余が、中川修理大夫囲込地所となる(屋敷書抜)』
以上次々取得した土地の坪数を合算すると、九千四百二十八坪ということになる。
庭園の管理も行き届いて、居留地の町割りができて後も、林泉の一部は残っていたようである。  (「29.切絵図考証一六 安藤菊二(PDFファイル:1328.58 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号107/147「当時(文化五年・1808年)之形」右ページに西尾隠岐守、堀田土佐守、堀田主税屋敷地が描かれています。コマ番号109/147「天保二(1831)年之形」右ページに中川修理大夫と記述され、道が付け替えられています。コマ番号110/147「天保七(1836)年之形」、コマ番号111/147「当時之形」で中川修理大夫屋敷地が描かれています。)

岡藩中川家上屋敷
[岡藩(おかはん)は、江戸時代豊後国(現在の大分県の一部)にあった藩。藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)。領地は豊後国の大野郡直入郡大分郡にまたがり、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩と呼ばれることもある。
織田信長豊臣秀吉に仕えた中川清秀の子で、4万石を領し、播磨国三木城主であった中川秀成が、1594年(文禄3年)に66000石で岡城に入封した。その後の1598年(慶長3年)の検地によって大野郡約3万9千石、直入郡約3万石、大分郡の約350石を合わせて約7万石が岡藩の表高となった。秀成は、1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにおいて東軍に属したため徳川家康より所領を安堵され、一度の移封もなく廃藩置県まで存続した。
第3代藩主・久清岡山藩を致仕した熊沢蕃山を招き灌漑事業・富国強兵などの指導を受けた。また、久清は九重連山の一つ大船山を愛し何度も登山した。しかも、遺言で大船山中に自身の墓を造らせ、入山公墓(入山は久清の号)として現在も大船山中にある。
第8代藩主・久貞は倹約令を中心とした改革で逼迫していた藩財政の再建を図った。また、藩校として由学館、武道修練所として経武館、医師養成所として博済館を設けた。
江戸時代後期には、当藩の藩医の出身である文人画家・田能村竹田が出ている。
明治4年(1871年)、廃藩置県により岡県となった。  (wikipedia・岡藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央左下に中川修理太夫(中川久昭)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は明石小学校正門前で、カメラ位置周辺が岡藩中川家上屋敷跡になります。また、この一帯は築地居留地の中心になります。