川越藩松平(松井)家中(上)屋敷

マーカーは一宮藩加納家上屋敷跡です。

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[木挽町五丁目の武家地の東部半分は川越藩、松平家(旧封八万四百石)の中屋敷であった。市史稿所収の「藩邸沿革」(市街篇巻四九)、川越藩松井家、木挽町五丁目中屋敷(P496・コマ番号292/553「一、上屋敷 木挽町五丁目」)の条に、
『拝領年月日不詳。・・・・本邸は天保六(1835)年唱替上屋敷と成り、天保十三(1842)年中屋敷に複シ、安政年間(1855年-1860年)再び上屋敷と唱へ、慶応元(1865)年中屋敷に復せしものなり。松井家記録、是最古の屋敷にして、徳川家康公入国当時即ち天正十八、九(1590,91)年の頃海にて拝領、自費にて埋立築地と為したるものにて王政維新の初迄所有せり。
 慶長八・九(1603,04)年頃日本橋以南埋立後拝領せしものなるべし。(今、片仮名を平仮名に書き改めた。)』
と記してある。川越藩はしばしば封地を転じ、犯歴は甚だ複雑している。
 この邸地は後木挽町一〇丁目となり
一二・一三番地は農商務省の敷地に、一四番地は林忠正氏の邸地となった。  (「38.切絵図考証二五 安藤菊二(PDFファイル:1542.09 KB)」より)]

松平康英
[松平 康英(まつだいら やすひで)は、江戸時代後期の旗本大名江戸幕府外国奉行神奈川奉行大目付勘定奉行、南町奉行を歴任した後に本家の大名家を相続、奏者番寺社奉行、老中となった。陸奥国棚倉藩の第4代藩主、武蔵国川越藩主。松井松平家12代。川越においては、城下宮下町に藩校長善館を開いた人物として知られる。旗本時代は松平 康直(まつだいら やすなお)で、本家相続後に康英と改名し、明治維新後に松井 康英と改名した。
旗本5000石で寄合の松平軍次郎康済の長男として江戸木挽町にて誕生。弘化4年(1847年)12月10日、父の隠居により家督を相続する。当時はを康直と名乗った。嘉永4年(1851年)9月から翌5年(1852年)9月まで駿府加番を勤め、安政2年(1855年)7月19日、火事場見廻役へ異動、安政5年(1858年)11月29日には寄合肝煎(3000石以上の旗本の世話役)、同年12月8日に講武所頭取、安政6年(1859年)12月15日、外国奉行となり同時に従五位下・石見守に叙任。翌日には神奈川奉行兼任となった。
万延元年(1860年)9月15日には外国奉行を罷免され、神奈川奉行専任となる。しかし文久元年(1861年)4月12日には再び外国奉行兼任となり、同年8月21日には江戸・大坂・兵庫・新潟の開市の延期とロシアとの千島樺太国境画定交渉のために欧州へ行くことを命じられ(文久遣欧使節)、12月22日に交渉使節団副使として欧州各国へ向けて出発し、翌文久2年(1861年)12月11日帰国した。帰国直後の28日に外国奉行専任となり、翌日には300石を加増された。
棚倉藩主相続と老中就任
文久3年(1863年)7月20日には但馬国出石藩主・仙石家のお家騒動(仙石騒動)に連座して懲罰的に陸奥国石川郡内に移されていた知行所5000石のうち2500石を、播磨国佐用郡の旧領の一部と替地され、知行所として陸奥国内2500石および播磨国内2500石を持つこととなる。同年8月14日に勘定奉行に任命され、翌元治元年(1864年)6月24日には大目付、その5日後の29日には江戸南町奉行となり、11月20日、本家の陸奥棚倉藩主・松平康泰が子のないまま亡くなったため棚倉藩を相続した。
棚倉藩主就任後の元治2年(1865年)1月11日、周防守に任官し、同月には諱を康英と改名した。同月20日には奏者番兼寺社奉行に任命され、3月8日に下野国宇都宮藩へ転封を命じられる。この後慶応元年(1865年)4月12日に老中、同月25日には外国事務取扱を命じられ、同月28日には従四位下に叙された。10月15日には宇都宮への転封が中止となって2万石を加増されたが、翌日老中を辞職した。しかし1ヶ月後の11月20日には再び老中に再任され、以前通り外国事務取扱となった。12月15日、侍従に任官される。
翌慶応2年(1866年)4月12日、海軍事務取扱兼任を命じられ、6月19日には陸奥白河藩へ転封を命じられたが、前白河藩主・阿部正静の都合で国替が手間取ったため、そのまま10月27日に武蔵川越藩へ転封された。慶応3年(1867年)5月12日には会計総裁兼任となり、外国・海軍事務取扱は免除された。慶応4年(1868年)2月5日、老中を罷免された。同年4月14日、明治政府より謹慎を命じられ、1か月後の5月13日に謹慎を解かれた。翌明治2年(1869年)4月10日、家督を養子の康載に譲り隠居した。  (wikipedia・松平康英より)]

国際日本文化研究センター – 武州豊島郡江戸庄図(寛永年間ヵ・1624-1643)」(絵図四つ切左下・三十間堀下に松平周防下やしきと記述されています。)

御府内往還其外沿革図書. 七之二(文化五年・1808年)」[絵図中央左に松平周防守(浜田藩主・松平康定)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図四つ切左上・二之橋上に松平周防守(棚倉藩主・松平康爵)中屋敷が描かれ、絵図中央左下、中川修理大夫上屋敷左に上屋敷が描かれています。]

東京都立図書館アーカイブ – 京橋南芝口橋築地鉄砲洲辺絵図(嘉永6[1853])」(絵図中央右上・二之橋、周防橋ト云の右上に松平周防守(棚倉藩主・松平康爵)中屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 万延改正新鐫京橋南築地鉄砲洲絵図(文久元[1862]改正再刻)」(絵図中央左下に松平周防守(棚倉藩主・松平康圭)上屋敷が描かれています。この後、松井松平家12代となった、松平康英は老中(任期:1865年 – 1868年)となり大名小路に上屋敷を拝領します。)

東京都立図書館アーカイブ – 万延改正新鐫京橋南築地鉄砲洲絵図(明治元[1868]改正再刻)」(絵図中央左下に松平周防守(川越藩主・松平康英)上屋敷が描かれています。中屋敷は上地となり築地居留地となっています。)

カメラ位置は銀中通り/演舞場通り交差点で、カメラ北東方向道路を含む両サイド一帯が川越藩松平(松井)家中(上)屋敷跡になります。