マーカーは弾正橋跡(三ッ橋)です。
弾正橋跡
[弾正橋は古く江戸時代寛永年間には既に、楓川上に架かっているのが記されており、北八丁堀に島田弾正少弼(江戸時代の町奉行)屋敷があったのがその名の由来のようである。弾正橋は当時交差した堀川上に真福寺橋、白魚橋と共に三つの橋がコの字状に架けられていたことから、江戸名所図会に「三ツ橋」として紹介されており、江戸における一つの名物であったようである。その後たびたび架替えられたが、明治11年に工部省の手により、我が国最初の国産の鉄を使った橋として架替えられた。その時の橋は現在でも江東区富岡一丁目に保存され、昭和52年に国の重要文化財として指定され、平成元年にはアメリカ土木学会の栄誉賞も受ける等その歴史的貴重さを増している。現在の橋は大正15年12月に復興局によって架替えられたもので、従来の弾正橋よりやや北側に位置している。その後昭和39年の東京オリンピックの時に、弾正橋の両側に公園が造成され、平成5年2月に公園と一体化された、くつろぎのある橋として再整備された。尚、公園にあるモニュメントは、明治11年、楓川に架かる弾正橋を象徴化して復元したものである。平成5年2月 中央区]
[◆『江戸名所図会』には次のように記されている。
三ツ橋(みつはし)―― 一つのところに橋を三所架(わた)せしゆゑに、しか呼べり。北八町堀より本材木(ほんざいもく)町八丁目へ渡るを、弾正橋(だんじょうばし)と呼び(寛永(1624-44)のころ、いまの松屋町の角(すみ)に、島田弾正少弼(しまだだんじょうのしょうひつ)やしきありしゆゑといふ)、本材木町より白魚屋敷(しらうおやしき)へ渡るを、牛の草橋といふ。また、白魚屋敷より南八町堀へ架するのを、真福寺橋(しんぷくじばし)と号(なづ)くるなり。
「三ツ橋」挿絵には、次の添句が記載されている。
『風羅袖日記』 八丁堀にて
菊の花さくや石屋の石の間 芭蕉 (「八丁堀周辺 歴史案内〈湊・入船・新富〉 – nifty」より)]
[橋が架けられたのは、江戸時代の初期、寛永年間 (1624~1643) と伝えられ、その頃の『弾正橋』(「元弾正橋」)は、現在の「鍛冶橋通り」よりも少し下流(南側。一説では、現在の『弾正橋』の50~60m下流)に架かっていた。
大正2年(1913年)、新しい弾正橋が現在の鍛冶橋通りにある位置に架けられたため、当初の弾正橋は「元弾正橋」と改称された。その後、大正12年(1923年)関東大震災後の帝都復興計画で、大正15年(1926年)に「鍛冶橋通り」が拡幅され、現在の弾正橋に架け替えられ、元弾正橋は廃橋となった。元弾正橋は、鍛冶橋通りにある現在の弾正橋より下流(南側)に位置したことから、道路の拡幅工事によって廃橋になった、と考えられる。ただ、『弾正橋』の50~60m下流説だと違うようだが。 (「「元弾正橋(八幡橋)」あれこれ。その2 – おやじのつぶやき」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 武州豊嶋郡江戸〔庄〕図(1624-1643・寛永年間」[絵図中央下に十本の船入堀が描かれ、日本橋と京橋の間の川が紅葉川で、紅葉川が接続する川が楓川です。楓川が左で接続する川が八丁堀で合流点に三つ橋が描かれています。三つ橋の右が弾正橋です。]
「東京都立図書館アーカイブ – 文久再鐫八町堀霊岸島日本橋南之絵図(文久3[1863]再刻)」(絵図中央左端、楓川に弾正橋が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 呉服橋御門外ヨリ鍛冶橋御門外日本橋京橋川筋限八丁堀箱崎霊岸島辺一円絵図」(絵図右楓川上端に「弾正橋」が描かれています。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九年」(絵図四つ切左上「大富町」上に、三つ橋の内「牛草橋」「真福寺橋」が描かれ、その上に「弾正橋」があります。)
「東京市及接続郡部地籍地図. 上卷」(大正元年)[174/647 – 地図右上に白魚橋、弾正橋が描かれています。新しい弾正橋が架かる位置には弾正橋が描かれていませんが、接続ルートになる本八丁堀一丁目通りが作図されています。)
「近代デジタルライブラリー – 商業小地図 東京市京橋区 大正二年」(2/6図の中央付近に白魚橋、弾正橋が描かれ、弾正橋の左側に新しい弾正橋が描かれています。この地図で見ると弾正橋と新しい弾正橋の間隔は50~60m下流説が合っているようです。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「三ッ橋」(2-28)、「三ッ橋解説・右ページ左」(2-27)
三ッ橋(拡大図)
[図会は北東方向から南東方向を描いています。右ページ下・楓川に架かる「弾正橋」、その上・京橋川に架かる「牛草橋(白魚橋)」、左ページに三十間堀に架かる「真福寺橋」が描かれています。]
狂歌江都名所図会 – 三ッ橋(拡大図)
カメラ位置は現弾正橋(江戸時代の弾正橋はの50~60m下流、京橋消防署東側付近にあった。)東詰めで、道路両サイドに欄干の弾正橋記念碑が設置してあります。
北側の弾正橋記念碑
南側の弾正橋記念碑