新発田藩溝口家中屋敷跡

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[木挽町七丁目には、越後国新発田藩十万石の城主、溝口侯の中屋敷があった。
 この木挽町の中屋敷は、十一代直諒の時、文化九(1812)年十一月二十四日に、千駄ヶ谷の下屋敷と切坪相対替で、この地にあった亀井能登守と松平主計頭との中屋敷、太田彦十郎の添屋敷などを一囲いにして、入手したものである。


 侯はここに庭園を築造し、樹石を配置し、亭館を造営し、幽清館偕楽園と呼んだ。邸地は明治維新に際し上地され、一切旧物を留めない。現在の銀座七丁目十四番地から十六番地にわたる地域の南側がその旧地に当たるらしい。この偕楽園の真景図の模本が上野の博物館に所蔵されており、明治の中頃に、江戸庭園史の研究家小沢翠園翁がその模本を作り、これを『風俗画報』第十六号に紹介された。区内の大名屋敷の邸宅図はほとんど伝わるものがなく、稀有な一例であるから、採ってここに掲げることとした。  (「5.木挽町の名家 安藤菊二(PDFファイル:1086.52 KB)」より)]

溝口直溥
[溝口 直溥(みぞぐち なおひろ)は、越後国新発田藩10代藩主・溝口直諒の長男として新発田にて誕生した。
文政8年(1825年)、江戸へ登り、父・直諒の正室を養母として嫡子となる。天保3年(1832年)6月1日、11代将軍・徳川家斉に初御目見する。同4年12月10日(1834年)、従五位下・主膳正に叙任する。天保9年(1838年)8月5日、父の隠居に伴い家督を継ぐ。
天保13年(1842年)、日光山御霊屋等修復の手伝い普請を命じられる。嘉永6年(1853年)5月27日、老中松平乗全から中川久昭と共に柳間の取締を命じられる。同年10月22日、松前崇広の後見を命じられる。同年11月8日、後見を承諾する。安政2年(1855年)10月2日、松前崇広の後見を辞職する。万延元年(1860年)、佐渡国警衛の任を解かれ、新潟援兵を申し付けられる。同年、このことなどを理由として10万石への高直しを命じられる。文久元年(1861年)には和宮に従って江戸入りした公家衆の接待役を勤める。同年12月16日、従四位下に昇進し、城中の殿席も大広間詰となる。同3年(1863年)、14代将軍・徳川家茂上洛に供奉して京都に至り、孝明天皇に拝謁する。同年、10万石以上の大名の役として御所警衛のために家臣を派遣し、京都に藩邸を設ける。同年、新潟警衛の任を解かれ、高田藩と隔年で佐渡警衛を行うべき旨申し付けられる。元治元年(1864年)天狗党の乱に伴って下野国出兵を命じられ、家老・溝口内匠を大将として出陣させる。慶応2年(1866年)には再び上京して京都警衛を勤める。
慶応3年(1867年)8月28日、家督を嫡子の直正に譲って隠居する。  (wikipedia・溝口直溥より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七之二(文化五年・1808年)」(絵図中央左方向、奥平大膳大夫右の亀井隠岐守、太田彦十郎、松平主計頭、青山大蔵少輔が新発田藩溝口家中屋敷となります。)

東京都立図書館アーカイブ – 京橋南芝口橋築地鉄砲洲辺絵図(嘉永6[1853])」(絵図上中央に溝口主膳正(溝口直正)中屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 万延改正新鐫京橋南築地鉄砲洲絵図(明治元[1868]改正再刻)」(絵図中央下方向に溝口主膳正(溝口直溥)中屋敷が描かれています。)

カメラ位置は中央市場通り/木挽町通り交差点で、中央市場通りに沿った通りを含む両サイドが新発田藩溝口家中屋敷跡になると思います。