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木挽橋跡関連リンク – 「三十間堀跡、「信楽茶屋」跡説明板」
木挽町
[寛永19年 (1642年)、山村小兵衛という者が木挽町四丁目(こびきちょう、現在の中央区銀座4丁目の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを山村座といった。続いて慶安元年(1648年) には筑前国の狂言作家・河原崎権之助が木挽町五丁目(現在の銀座5丁目の昭和通りの東側)に櫓をあげ、これを河原崎座といった。さらに万治3年 (1660年) には摂津国の人で「うなぎ太郎兵衛」と呼ばれた森田太郎兵衛がやはり木挽町五丁目に櫓をあげ、これを森田座といった。こうして木挽町四五丁目界隈にも芝居茶屋や芝居関係者の住居などが軒を連ね、一時は堺町・葺屋町に匹敵する芝居町を形成、「木挽町へ行く」と言えば「芝居見物に出かける」ことを意味するほどの盛況となった。この山村座・河原崎座・森田座の三座を、木挽町三座という。 (wikipedia・江戸三座より)]
[寛永19年(1734年)、木挽町五丁目に山村座が櫓をあげ、その数年後同じ木挽町に河原崎座が設立をみた。明暦の大火後、江戸幕府は江戸における芝居興行地を、堺町二丁(後の堺町と葺屋町)、木挽町五・六丁目の四ケ町に制限したので、万治3年(1660年)には、森田太郎兵衛が木挽町に森田座を開いた。しかるに、正徳4年(1714年)に名高い絵島生島事件がおきて、山村座は取潰しの厄に遭い、ついに再建を許されず、以後、中村座・市村座・森田座をもって、江戸三座と称するようになった。
森田座は、天保の改革まで、長くこの地にあり、一時浅草の猿若町に移って興行を続け、明治になって、守田座の名を持って再び区内新富町に舞い戻って来たのである。森田座の旧位置は、現在の銀座東6丁目13番地内というより説明しようがないが、川尻清潭氏は記して、
「現在の歌舞伎座の向こう横町、今では昭和通りと呼ばれているあの一部分であったらしく、昭和33年頃、歌舞伎座の方から行って其往来の右側の中程に、新川の酒問屋鹿島清兵衛の経営していた玄鹿館と名付けた写真館のあった処が、森田座の跡と言う事。それは同館を建築する時、地行の際の土中から、土台石や劇場の木材が掘出されたので、立証された話が伝わっています。(『歌舞伎座』から)」
といっておられる。 (「中央区立図書館 – 2.中央区と演劇 安藤菊二(PDFファイル:947.00 KB)」より)]
木挽町五丁目、木挽橋跡資料リンク
「武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション(1624-1643・寛永年間」[絵図中央下に八丁堀舟入の左に三十間堀が描かれ、三十間堀の右が紀伊國橋でその左に描かれているのが木挽橋です]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図四つ切左上・三十間堀の木挽町五丁目右上に木挽橋が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九年」(絵図四つ切左下「三十間堀」に描かれる「五丁目橋」が「木挽橋」です。)
「江戸方角安見図鑑. 乾,坤巻」・「ru11_01312_0001_p0014.jpg」[三十間堀の右にきの國ばしが描かれその左に無記名で三原橋、木挽橋が描かれている。]
「京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」・ 「bunko10_08631_p0002.jpg」[絵図三十間堀下から紀伊国橋、一之橋(木挽橋)が描かれています。]
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「木挽町芝居」(2-43)、「歌舞伎芝居解説・右ページ4行目より」(2-47)
木挽町芝居(拡大図)
[図会は一の橋(木挽橋)から木挽町五丁目方向の鳥瞰図です。]
カメラ南方向が木挽町5丁目になります。また、カメラ北西方向の2区画に三十間堀があり、ここに木挽橋が架かっていた。