マーカーは横須賀藩西尾家中(下)屋敷跡です。
関連リンク – 横須賀藩西尾家上屋敷跡(中央合同庁舎 第1号館・林野庁)、横須賀藩西尾家下屋敷跡
[木挽町二丁目から三丁目にかけての土地は、寛永図以来ずっと京極主膳もしくは京極主膳正の名が記されている。京極主膳正は丹後峰山藩の藩主である。「藩邸沿革」に、
『上屋敷 木挽町
拝領年月日不詳。唱替天明八(1788)年六月廿八日、坪数六八六六坪。
文化九(1812)年十二月二十九日、三三三一坪を井伊兵部少輔え
文化十一(1814)年六月二十二日、曲渕甲斐守拝領屋敷木挽町一四五〇坪の内二〇〇坪京極周防守え
文政十一(1828)年十二月二十八日、西尾壱岐守(西尾忠善)下屋敷木挽町六七九坪余京極上総介え、同人中屋敷同所三五六二坪西尾隠岐守え、相対替』
と記してあるから、文政十一年十二月二十八日に西尾隠岐守に譲渡してこの地を去ったのであった。 (「36.切絵図考証二三 安藤菊二(PDFファイル:1561.79 KB)」より)]
「国際日本文化研究センター – 武州豊島郡江戸庄図(寛永年間ヵ・1624-1643)」(絵図四つ切左下・紀伊国橋下、紀伊大納言様御蔵屋敷左に京極主膳(京極高通)屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号40/147「延宝年中(1673年-1681年)之形」からコマ番号46/147「文化五(1808)年之形」まで、左ページ右に京極備後守、主膳正、備前守、周防守と記述されています。コマ番号49/147「文化十一(1814)之形」で京極周防守敷地左部分が大久保加賀守(大久保忠真)と記述されています(井伊兵部少輔からの屋敷替えか?)。コマ番号51/147「文政十一年(1828)之形」で京極周防守が西尾隠岐守となっています。コマ番号53/147「安政三(1856)年之形」で大久保加賀守が細川越中守(細川斉護)となっています。)
西尾忠篤
[西尾 忠篤(にしお ただあつ)は、嘉永3年(1850年)、遠江国横須賀藩第7代藩主西尾忠受の長男として生まれる。文久元年(1861年)10月13日、忠受の死去により家督を継ぐ。文久3年(1863年)1月15日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下・隠岐守に叙任する。
幕末の動乱期で藩内では佐幕派、尊王派が抗争を続け、慶応4年(1868年)の戊辰戦争においても両派の抗争が続いたが、八十美穂や青山善一郎らによる佐幕派への説得もあって、横須賀藩は新政府に協力した。慶応4年(1868年)9月5日、徳川家達が東海地方に封じられたため、忠篤は安房花房に移封となった。
明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。 (wikipedia・西尾忠篤より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央左上に西尾隠岐守(西尾忠受)下屋敷が描かれています。]
「東京都立図書館アーカイブ – 京橋南芝口橋築地鉄砲洲辺絵図(嘉永6[1853])」(絵図中央右下に西尾隠岐守(西尾忠受)中屋敷と描かれています。)
カメラ位置は松屋通り/木挽町通り交差点で、カメラ位置周辺が横須賀藩西尾家中(下)屋敷跡になると思います。