浴恩園跡

マーカーは浴恩園跡案内プレート板及び第五福竜丸のプレート板です。

浴恩園跡
[東京都指定旧跡 浴恩園跡
所在:中央区築地5丁目2番1号
    東京都中央卸売市場内
指定:大正15年4月26日
 江戸時代中期の陸奥白河藩松平定信老中の職にあって寛政の改革で幕政の建て直しを行ったが、老後には将軍よりこの地を与えられた。当時この地は江戸湾に臨み風光明媚で林泉の美に富み、浴恩園と名付けて好んだという。
 明治維新以後この地は海軍省用地となり、海軍兵学校、海軍病院などを設置して著しく園地の風景を変えた。さらに、大正12年12月、日本橋にあった魚市場(俗に魚河岸)がこの地に移転して来るに及んで、かつての浴恩園の面影はまったく消滅し、現在は東京都中央卸売市場が設置されている。
平成6年3月1日 建設 東京都教育委員会]

浴恩園について「東京都中央区立京橋図書館 – 郷土室だより – 25.切絵図考証一二 安藤菊二(PDFファイル:2541.23 KB)」で紹介されています。

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸浴恩園全図」、「浴恩園真景」、「浴恩園図記」、「浴恩園西御殿並諸亭[シャ]坪割図

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七之二[文化五(1808)年]」[絵図四つ切左下に「松平越中守」(松平定信)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」[コマ番号133/147・「明和年中(1764年-1772年)之形」絵図中程に民部卿殿(徳川治済)と描かれています、この地の一部が後に松平越中守(松平定信)が拝領します。コマ番号134/147・「当時之形[文化五(1808)年]」絵図中程に松平越中守(松平定信)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九(1838)年」(絵図四つ切右下に「松平越中守」(松平定和)と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図[嘉永二(1849)年]」[絵図左端中央付近・松平越中守(松平定猷)が桑名藩久松松平家下屋敷です。]

京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」・「bunko10_08631_p0003.jpg

松平定信旧居浴恩園跡 – Google Map 画像リンク

カメラ南東方向、横断歩道先・元中央卸売市場正門横の壁右に浴恩園跡案内プレート板、左に第五福竜丸のプレート板が設置されています。

松平定信
[松平 定信(まつだいら さだのぶ)は、江戸時代大名老中陸奥国白河藩第3代藩主。定綱系久松松平家第9代当主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。
宝暦8年(1758年)12月27日、御三卿田安徳川家の初代当主・徳川宗武の七男として生まれる。
幼少期より聡明で知られており、田安家を継いだ兄・徳川治察が病弱かつ凡庸だったため、一時期は田安家の後継者、そしていずれは第10代将軍・徳川家治の後継と目されていたとされる。しかし、田沼意次による政治が行われていた当時から、田沼政治を「賄賂政治」として批判したため存在を疎まれており、意次の権勢を恐れた一橋徳川家当主・治済によって、安永3年(1774年)に久松松平家の庶流で陸奥白河藩第2代藩主・松平定邦の養子とされてしまった。一時期は将軍世子とまで言われた定信は、このことにより意次を激しく憎み、後に暗殺を謀ったとまで言われる一方で、自らも幕閣入りを狙って、意次に賄賂を贈っていたことは、有名な逸話である。
藩主に就任したのは、天明の大飢饉の最中である天明3年(1783年)であるが、それ以前から養父・定邦に代わって藩政を代行していたと言われている。定信は天明の大飢饉で苦しむ領民を救うため、自らが率先して倹約に努め、さらに領民に対する食料救済措置を迅速に行なったため、白河藩内で天明の大飢饉による餓死者は出なかったと言われている。特に東北地方における被害が大きかった天明の大飢饉で、これは異例のことと言ってもよい。これは、近隣の会津藩の江戸廻米を買い取る、西国より食糧を買い入れるなど迅速な対応によるものだった。教育においては藩士の子弟のための藩校立教館と共に、庶民のための郷校敷教舎も設置し、民衆に学問への道を開いてもいる。文化においては1801年(享和元年)、日本最古の公園である南湖公園を造り、庶民に開放した。
天明の大飢饉における藩政の建て直しの手腕を認められた定信は、天明6年(1786年)に家治が死去して田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、徳川御三家の推挙を受けて、少年期の第11代将軍・徳川家斉のもとで老中首座・将軍輔佐となる。そして幕閣から旧田沼系を一掃粛清し、祖父・吉宗の享保の改革を手本に寛政の改革を行い、幕政再建を目指した。前任者である田沼意次の重商主義政策と役人と商人による利権賄賂政治から、朱子学に基いた重農主義による飢饉対策や、厳しい倹約政策、役人の賄賂人事の廃止、旗本への文武奨励などで一応の成果をあげた。老中就任当初から大田南畝により「白河の清きに魚のすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」などと揶揄された。一方で、海国兵談を著して国防の危機を説いた林子平らを処士横断の禁で処罰したり、寛政異学の禁で朱子学だけを正統とし、江戸幕府の学問所である昌平坂学問所では朱子学以外の講義を禁じ、蘭学を排除するなど、結果として幕府の海外に対する備えを怠らせたという見方もある。しかし実際には、寛政の三博士の一人たる古賀精里の子・古河侗庵及びその子・古河茶渓ともに昌平黌に奉職しながら朱子学のみならず洋学・国際情勢にも通じ、特に茶渓は、蕃書調所設立を建白し実現させた人物であり、その見方は一面的といわざるを得ない。対外政策は緊迫した状況にあり、もしもオランダ(ネーデルラント連邦共和国)がフランス革命軍に占領された場合、ロシア江戸に乗り込んで来る可能性があり、あるいは千島領オランダ商館の権利がフランスに移る可能性、またイギリスが乗り込んで来て三つ巴の戦場となる可能性があった。 定信は、江戸湾などの海防強化を提案した。また、朝鮮通信使の接待の縮小などにも務めた。
寛政5年(1793年)7月23日、定信は、海防のために出張中、辞職を命じられて老中首座並びに将軍補佐の職を辞した。定信辞任の二ヵ月後の9月、鎖国の禁を破った罪人であるはずの大黒屋光太夫は処刑を免れて江戸城で将軍家斉に謁見し、蘭学者たちは翌年11月11日(1795年1月1日)からオランダ正月を開始し、大黒屋光太夫も出席した。定信の辞任は、日本国内に、キリスト教国からの帰国を許し、蘭学者勢力の隆盛をもたらした。
定信の辞任事件は、尊号一件が原因と言われることが多い。大政委任論では朝廷の権威を幕政に利用するが、光格天皇が実父の閑院宮典仁親王太上天皇の尊号を贈ろうとすると朱子学を奉じていた定信は反対し、この尊号一件を契機に、父である一橋徳川家の第2代当主・徳川治済大御所の尊号を贈ろうと考えていた将軍・家斉とも対立していた。
定信引退後の幕府は、三河国吉田藩主・松平信明越後国長岡藩主・牧野忠精をはじめとする定信派の老中はそのまま留任し、定信の政策を引き継いだので、彼らは寛政の遺老と呼ばれた。定信の寛政の改革における政治理念は、幕末期までの幕政の基本として堅持されることとなった。
老中失脚後は、白河藩の藩政に専念する。白河藩は山間における領地のため、実収入が少なく藩財政が苦しかったが、定信は馬産を奨励するなどして藩財政を潤わせた。また、民政にも尽力し、白河藩では名君として慕われたという。定信の政策の主眼は農村人口の維持とその生産性の向上であり、間引きを禁じ、赤子の養育を奨励し、殖産に励んだ。ところが、寛政の改革の折に定信が提唱した江戸湾警備が文化7年(1810年)に実施に移されることになり、最初の駐屯は主唱者とされた定信の白河藩に命じられることとなった。これが白河藩の財政を圧迫した。文化9年(1812年)、家督を長男の松平定永に譲って隠居したが、なおも藩政の実権は掌握していた。定永時代に行なわれた久松松平家の旧領である伊勢国桑名藩への領地替えは、定信の要望により行われたものとされている。文政12年(1829年)5月13日に死去した。享年72。  (wikipedia・松平定信より)]

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