マーカーは淀藩稲葉家中屋敷跡です。
関連リンク- 淀藩稲葉家上屋敷跡、淀藩稲葉家下屋敷跡(こどもの城・国連大学)
稲葉正邦
[陸奥国二本松藩主・丹羽長富の七男。嗣子のいなかった淀藩主稲葉正誼の養子となる。
淀藩では譜代の城代家老田辺家が執政を取り仕切るならわしで、正邦の代は田辺権太夫(のち右京)が藩政を差配した。田辺氏と正邦とは意見を違えることが多かったらしく、急進・改革を唱える正邦に対して田辺家は穏健派であったらしい。日常の藩主の執務に対して田辺氏が随行しないこともあったと、当該期史料に残る。
稲葉家淀藩は西国に睨みを利かせる畿内随一の藩であることから、正邦も当初から幕府内での昇進が早く、会津藩・桑名藩と薩摩藩が同盟を結んだ頃から京都所司代となり、京都の政務を一任されていた。後に老中、さらには政事総裁として、もっぱら江戸藩邸での活動に終始する。
幕府での位置づけが高まることから、第一次・第二次長州征伐への淀藩士派兵を決定するが、田辺権太夫の強硬な反対によって断念するという一幕があり、佐幕急進派の正邦と穏健派の藩首脳部の対立は顕在化していったらしい。老中を抱える藩として鳥羽・伏見の戦いには淀城より出兵したものの、後退する旧幕府軍の入城を拒否した。藩首脳部と新政府との密約成立により新政府に恭順したのである。城代家老田辺権太夫は鳥羽・伏見の戦いの際には「江戸に滞在」していた。幕府軍の入城を拒否したのは淀藩留守居役の田辺の弟治之助か(のち幕府軍を数名入れたということを理由に切腹)。このとき、江戸で将軍の留守政権の首脳として活動していた正邦は、自らの藩が自身の決定なくして徳川家に反旗を翻すという事態に遭遇するという複雑な立場に立たされ、慶応4年(1868年)2月に老中職を辞任し、朝廷からの上洛要請に応じる事になる。だが、三島宿にて秘かに徳川慶喜から新政府への嘆願書を持っていたことが発覚し、小田原の紹太寺にて謹慎を余儀なくされた。その後、新政府の許可によって身柄は京都に送られたが、閏4月5日に在国家臣の働きの功績をもって宥免された。淀藩はその後も新政府に対する恭順の姿勢を貫き、正邦ら佐幕急進派が分裂することもなかった。 (wikipedia・稲葉正邦より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七之二[文化五(1808)年]」[絵図四つ切左下に「稲葉丹後守(稲葉正備)」と描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」[コマ番号130/147・「延宝年中(1673年-1681年)之形」、コマ番号131/147・「宝永年中(1704年-1711年)之形」絵図上に後に松平越中守(桑名藩)が拝領する屋敷地を含め稲葉美濃守、丹後守と描かれています。、132/147-136/147に稲葉丹後守、長門守が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図[嘉永二(1849)年]」(絵図中央左方向に稲葉長門守(稲葉正邦)中屋敷が描かれています。)
カメラ位置は旧築地市場前交差点で、カメラ位置付近一帯が淀藩稲葉家中屋敷跡になります。