マーカーは狩野勝川院屋敷跡案内板です。
狩野勝川院
[室町時代にぼっ興して画壇の権力を掌握した狩野派は、江戸時代になってから江戸幕府の御抱絵師の筆頭として、柳営の障壁画や、徳川家霊廟の障壁画の補修、あるいは御前揮毫などを世業とした。狩野家は、中橋・鍛冶橋・木挽町・駿河台・浜町の五家に分かれて門戸を張っていたが、画塾を開いて画家の養成に当っていたのは木挽町の狩野家のみで、明治初期の画壇に盛名を唱われた狩野芳崖(かのう ほうがい)・橋本雅邦(はしもと がほう)の両巨人もまたこの画塾から巣立っている。この画塾の跡は、采女町時代の22~24番地辺、現在の銀座5丁目13番9~14号辺に当る。
木挽町狩野家は、狩野孝信の次子自適斎尚信(狩野探幽の弟)から出て、養朴斎常信、如川周(ちか)信、栄川院古(ひさ)信、栄川院典(みち)信、養仙院惟(これ)信、伊川院栄(なが)信、晴川院養(おさ)信、勝川院雅(うた)信と画業を継承し賜邸は始め竹川町(現、銀座7丁目内)にあったが、栄川院の時に、時の執政田沼意次(おきつぐ)の知遇を受けて、木挽町の田沼屋敷(松平下総守の邸地跡)内の西南角に当る、日当たりの好い場所を与えられて、木挽町に住むこととなった。
栄川院は意次に気に入られていたので、常に庭伝いに公と往来していた。それで、公事も直接公の執事と相談するより、間接に栄川院に依頼する者が多かったといわれる。
なお狩野家邸内には、大井戸と呼ばれる著名な井戸があった。 (「中央区立図書館 – 4.采女町史談 安藤菊二(PDFファイル:1047.70 KB)」より)]
[奥絵師4家の中で、幕末まで比較的高名な画人を輩出したのは、狩野尚信の系統の木挽町家である。この家系からは尚信の嫡男の狩野常信(1636 – 1713)、その子の狩野周信(ちかのぶ、1660 – 1728)と狩野岑信(みねのぶ、1662 – 1708)らが出ている。岑信は将軍・徳川家宣の寵愛を受け、後に「浜町家」として独立し、「奥絵師家」の1つに数えられるようになった。
木挽町家からは、江戸時代後期に栄川院典信(えいせんいんみちのぶ、1730 – 1790)、養川院惟信(ようせんいんこれのぶ、1753 – 1808)、伊川院栄信(いせんいんながのぶ、1775 – 1828)、晴川院養信(せいせんいんおさのぶ、1786 – 1846)などが出ている。晴川院養信は、天保9年(1838年)と同15年(1844年)に相次いで焼失した江戸城の西の丸および本丸御殿の再建に際し、膨大な障壁画の制作を狩野派の棟梁として指揮した。障壁画そのものは現存しないが、膨大な下絵が東京国立博物館に所蔵されている。晴川院は古画の模写や収集にも尽力した。一般に、江戸時代後期の狩野派絵師に対する評価はあまり高くないが、20世紀後半以降の研究の進展により、晴川院は古典絵画から幕末の新しい絵画の動きまで熱心に研究した、高い技術をもった絵師であったことが認識されるようになり、再評価の動きがある。
晴川院の次代の勝川院雅信(しょうせんいんただのぶ、1823 – 1880)の門下には、明治初期の日本画壇の重鎮となった狩野芳崖(下関出身、1828 – 1888)と橋本雅邦(川越出身、1835 – 1908)がいた。芳崖と雅邦はともに地方の狩野派系絵師の家の出身であった。職業絵師集団としての狩野派は、パトロンであった江戸幕府の終焉とともにその歴史的役目を終えた。 (wikipedia・狩野派より)]
[狩野典信は絵を好んだ徳川家治の寵愛深く、子の惟信(これのぶ)や中橋狩野家の狩野永徳高信と共に日々傍らに仕えたという(『続三王外記』[続三王外記 – 古典籍総合データベース – 早稲田大学])。安永6年(1777年)、通常新たな屋敷を拝領すればそれまでの土地は返却するのが習わしであるのに、従来の竹川町の屋敷はそのままに木挽町に新たな土地を拝領した。以後、時代を遡って狩野尚信の家系は、木挽町狩野家と呼ばれる。木挽町の屋敷は田沼意次の旧邸を分与されたものであり、ここから典信と意次は互いに裏門から往来し、意次の密議は常に典信の屋敷で計られたという伝承が生まれた。新宅には他の狩野家より大きな画塾が設けられ、塾生の数も常に5、60人を下らなかったという。 (wikipedia・狩野典信より)]
[所在地 中央区銀座5-13-9~14付近
江戸幕府の奥絵師(おくえし)であった狩野四家は、いずれも狩野探幽(たんゆう)(守信)、尚信(なおのぶ)、安信の三兄弟を祖とし、鍛冶橋・木挽町・中橋の三家と木挽町の分家浜町と、四家全て区内に拝領屋敷がありました。
木挽町狩野家の祖、狩野尚信は寛永7年(1630年)に江戸に召し出され、竹川町(銀座7丁目)に屋敷を拝領して奥絵師になりました。のち、安永6年(1777年)6代典信(みちのぶ)(栄川)の時に、老中田沼意次(おきつぐ)の知遇を得て、木挽町の田沼邸の西南角にあたるこの地に移って、画塾を開きました。
奥絵師四家のなかでもっとも繁栄した木挽町狩野家は、諸大名などからの制作画の依頼も多く、門人もまた集まりました。門人のほとんどは諸侯のお抱え絵師の子弟で、14、5歳で入門し、10年以上の修行を要しました。修業を了えた者は師の名前から一字を与えられて、絵師として一家を成す資格を持つといわれました。
この狩野画塾からは、多くの絵師が輩出しましたが、明治の近代日本画壇に大きな貢献をした狩野芳崖や橋本雅邦はともに、木挽町狩野最後の雅信(うたのぶ)(勝川)の門下生です。
平成9年(1997年)3月 中央区教育委員会 (「東京都中央区の歴史 狩野画塾跡」より)]
狩野勝川院屋敷資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号45/147・「安永(1772年-1781年)年中之形」絵図左ページ中央に田沼主殿頭(田沼意次)その上に「狩野栄川」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九(1838)年」(絵図中央付近「二ノ橋」左上に「諏訪伊勢守」の左に「狩野勝川院」と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(安政4年・1857年)」[絵図左上・木挽橋下、諏訪因幡守(諏訪藩)の上・狩野勝川が狩野勝川院屋敷跡です。]
「京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編] 」 – 「請求記号:文庫10_08631 4カット」
カメラ東北東方向建物右端手前に狩野画塾跡案内板がありました。
狩野画塾跡案内板(Google Map 画像)