相良藩田沼家鉄砲洲下屋敷跡

マーカーは相良藩田沼家鉄砲洲下屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP769・コマ番号428/553から相良改小久保藩上屋敷の変遷について記載されています。P775・コマ番号431/553「下屋敷 鉄砲洲築地」がこの地になります。

[鉄砲洲田沼家の下屋敷は、嘉永元(1848)年八月五日、水野大監物の下屋敷七百二坪と、田沼家の渋谷の下屋敷千坪とを相対替で取得したものであった。  (市史稿、市街篇四九 – 七七五頁)  (「30.切絵図考証一七 安藤菊二(PDFファイル:2586.67 KB)」より)]

田沼意尊
[田沼 意尊(たぬま おきたか)は、江戸時代後期の大名。若年寄遠江国相良藩主、上総国小久保藩初代藩主。官位は従五位下・玄蕃頭。相良藩田沼家8代。曾祖父は田沼意次
田沼意留の子として誕生。天保11年(1840年)7月20日、22歳で家督相続。大坂定番を務めた。文久元年(1861年)9月14日、43歳で若年寄に就任する。
元治元年(1864年)、幕府軍総督として水戸藩浪士による天狗党の乱の鎮圧に努め、天狗党退去後には筑波山を占領しているが、部田野の戦いでは敗北した。なお、乱の鎮圧に必要な軍資金の調達に奔走した家老の井上寛司が、借金を返済できなかったために切腹するという出来事があった。翌元治2年(1865年)、越前国敦賀で降伏をした武田耕雲斎らを処刑した。
慶応2年(1866年)10月4日、若年寄を解任された。慶応4年(1868年)の鳥羽・伏見の戦いに幕府軍として参陣した。直後の2月に駿遠地方では最も遅く勤王証書を提出した。
明治元年(1868年)9月21日に上総小久保へ移封され、明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により藩知事となった。洋学を取り入れた近代的な藩校創設に尽力した。同年12月24日、51歳で死去した。  (wikipedia・田沼意尊より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号106/147「当時之形」左ページ上に田沼玄蕃頭と記述されています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央左下に中川修理大夫上屋敷左方向に田沼玄蕃頭下屋敷が描かれています。]

カメラ位置は聖路加国際大学正門前で、カメラ南南東方向が相良藩田沼家鉄砲洲下屋敷跡になると思います。