篠山藩青山家鉄砲洲下屋敷跡

マーカーは篠山藩青山家鉄砲洲下屋敷跡です。

関連リンク – 篠山藩青山家上屋敷跡篠山藩青山家下(中)屋敷跡篠山藩青山家下屋敷跡(元玉窓寺跡)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP818・コマ番号453/553から篠山藩屋敷の変遷について記載されています。P823・コマ番号455/553「下屋敷 鉄砲洲築地 京橋区明石町」がこの地になります。

青山忠敏
[青山 忠敏(あおやま ただゆき)は、天保5年(1834年)2月21日、5代藩主・青山忠良の次男として江戸で誕生。嘉永3年(1850年)12月16日、従五位下・因幡守に叙位・任官する。文久2年(1862年)2月29日、父が病気を理由に隠居したため、家督を継いだ。幕末期の動乱の中では、譜代大名の名門のため佐幕派として行動し、文久3年(1863年)8月、二条城守備を務め、元治元年(1864年)5月には従四位下に昇叙され、7月の禁門の変にも出兵した。8月9日には左京大夫に遷任される。
元治2年(1865年)1月20日、奏者番に任じられる。慶応4年(1868年)1月からの戊辰戦争では、藩内で佐幕派と尊王派が争い、結局は西園寺公望新政府軍が侵攻して来ると新政府に降伏し、五箇条の御誓文の席にも参列した。明治2年(1869年)6月19日、版籍奉還により篠山知藩事に任じられた。同年、遠江国にあった1万石の藩領が、静岡藩に移された徳川家達の領土として組み込まれたため、代替地として丹波但馬国国内で1万石を与えられている。
明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免職される。  (wikipedia・青山忠敏より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号110/147「天保七(1836)年之形」では堀田摂津守と記述されています。コマ番号111/147「当時之形」で青山下野守と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央左下、数馬橋右下方向に青山下野守(青山忠良)下屋敷が描かれています。)

カメラ位置は聖ルカ通り/居留地中央通り交差点で、カメラ西方向に蘭学事始の地・慶応義塾開塾の地碑があり、そこが篠山藩青山家鉄砲洲下屋敷跡中央部になると思います。