紀伊國橋

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紀伊國橋関連リンク – 「三十間堀跡、「信楽茶屋」跡説明板

紀伊國橋
[三十間堀1丁目と2丁目の間の通りには紀伊國橋が架かり、里俗呼称として「一丁目二丁目横町紀伊國橋通り」は「花町」と呼ばれていたとある。里俗は土地の習慣のことで、里俗呼称は土地の呼び名のこと。個々に記述される紀伊國橋は三十間堀川に架かっていた橋で、名前の由来は海側の木挽町に紀州徳川家蔵屋敷があったことによる。蔵屋敷は紀州から船で運ばれてきた荷を保管する倉庫で、松脂、椎茸、鰹節、塩鯨などがあったといい、これを市中に運搬のために紀州徳川家が紀伊國橋を架橋したともいわれる。紀伊國橋は寛永9年(1632)の武州豊島郡江戸庄図にすでに見られ、慶長12年(1612)の三十間堀川の開削後間もなく架橋されたと考えられる。  (「三十間堀川と三原橋 – 新明解言葉辞典・第3版 – FC2」より)]

[紀州藩江戸屋敷木挽町邸(中央区銀座1-19・20、2-12~16)
寛永江戸図・武州豊嶋郡江戸庄図(寛永9年1632年)
拝領時期が定かではないのですが、慶長17年(1612年)という説もあり、そうなると一番古い紀州徳川家の江戸屋敷かもしれません。「南紀徳川史」によると、この屋敷は前後両度御拝領とあり、何故か宝永5年(1708年)に返上し直ぐ再拝領しています。紀州から船で海上輸送されてきた物産(松脂、椎茸、鰹節、塩鯨など数十品目)を納入・保管していた蔵屋敷として使用されていました(「江戸史跡事典」新人物往来社)。大坂冬の陣・夏の陣の2~3年前ですから、未だ徳川幕府が政権不安定な時代。江戸城を築城し防備を固めることが最優先課題であり、江戸の“町づくり”も急がれた時代。早い段階から蔵屋敷が準備されていたことには、徳川幕府が戦闘集団でありながら、経済的な基盤を固めるための施策にも長けていたことの現われかと関心を惹かれます。なお、物産は紀州家出入りの特権商人(栖原屋角兵衛と紙屋庄八)によって売り捌かれていた。今はこの蔵屋敷跡(銀座2丁目の東半分に相当)に何の痕跡も残されていません。寛永9年(1632年)の寛永江戸図には「紀伊大納言様御蔵屋敷」が三十間堀の南側に記載されています。三十間堀には藩が架橋したと言われる「紀伊国橋」が架かっており、対岸には銀貨を鋳造していた「銀座」の表記が読み取れます。この三十間堀は戦後埋立てられてしまいました。「紀伊国橋」も撤去され影も形もありません。この地図で面白いのは蔵屋敷の南側は直ぐ海として描かれています。江戸初期ですから築地の埋立が終わっていなかったのでしょう。  (「紀州藩江戸屋敷 – 和歌山社会経済研究所 | レポート」より)]

紀伊國橋資料リンク
武州豊嶋郡江戸〔庄〕図 – 国立国会図書館デジタルコレクション(1624-1643・寛永年間」(絵図中央下に八丁堀舟入の左に三十間堀が描かれ、三十間堀の右端の橋が紀伊國橋です。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図4つ切り・左上の三十間堀川の一番右に紀伊國橋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九年」(絵図四つ切左上・「堀田備中守」左上に「紀伊國橋」が描かれています。)

武州豊嶋郡江戸庄図」・「ru11_00384_p0006.jpg

江戸方角安見図鑑. 乾,坤巻」・「ru11_01312_0001_p0014.jpg

京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」・ 「bunko10_08631_p0002.jpg

カメラ位置は紀伊國橋跡で、カメラ北東・南西方向に三十間堀川があった。

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