肥後新田藩細川家上屋敷跡

マーカーは肥後新田藩細川家上屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP575・コマ番号331/553から高瀬藩(肥後新田藩)屋敷の変遷について記載されています。「一、上屋敷 鉄砲洲 京橋区舩松町」がこの地です。

[この鉄砲洲中屋敷については『江戸藩邸沿革』に次の記載がある。
『一、中屋敷、鉄砲洲
呈譜、元文四(1739)己未十二月廿五日、鉄砲洲舩松町近藤隼人下屋敷ト本所小名木川下屋敷ト相対替、願之通被仰付候。
相対替屋敷書抜、元文四(1739)年十二月廿五日近藤隼人下屋敷鉄砲洲七百四拾七坪、細川備後守下屋敷、本所小名木川七百廿九坪近藤隼人相対替。
同書、天明四(1784)年十月十日安藤伊三郎拝領屋敷、鉄砲洲舩松町二丁目千壱百五拾三坪、細川能登守え、能登守下屋敷本所中之郷三千五百五十九坪余、安藤伊三郎え相対替。
文久三(1863)年十月屋敷渡預絵図証文」に鉄砲洲十軒町、松平出雲守上ケ屋敷坪数二千八百四拾壱坪余、家作共細川若狭守永利え当分被成御預之  (市街篇四七 – 一一七頁)
 舩松町の細川屋敷は、居留地開設に伴い、慶応三(1867)年九月二十六日」付で、「御用ニ付可被差上候、家作は引取可被下候。為代地本所石原阿部主計頭中屋敷家作共被下之、且又為御手当金子三千両被下之。」という通達を受け、取払いとなった。 (市街地篇四八 – 四〇八頁)  (「30.切絵図考証一七 安藤菊二(PDFファイル:2586.67 KB)」より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号106/147「享保年中(1716年-1736年)之形」右ページ下に細川備後守、安藤頼母、近藤三次郎と記述されています。コマ番号107/147「当時(文化五年・1808年)之形」以降は細川家となっています。)

肥後新田藩細川家
[肥後新田藩は、熊本藩の支藩。寛文6年(1666年)熊本藩3代藩主・細川綱利の弟・利重が熊本藩の蔵米より3万5千石を分与され立藩した。江戸鉄砲洲に住み参勤交代を行わない定府大名であった。しかし、明治維新により慶応4年(1868年)に仮藩庁を高瀬町奉行所(玉名市)に置いた。これにより、高瀬藩と改称した。明治3年(1870年)、玉名郡岩崎村(玉名市)に正規の陣屋が完成し移った。しかし、同年には熊本藩に合併し廃藩となった。  (wikipedia・肥後新田藩より)]

御府内往還其外沿革図書. 七之二(文化五年・1808年)」[絵図四つ切右下・細川右近細川利国)と描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央下に細川能登守(細川利用)上屋敷が描かれています。]

カメラ位置は新富晴海線/鉄砲洲通り交差点で、カメラ南南東方向、新富晴海線を含む一画が肥後新田藩細川家上屋敷跡になります。