蘭学事始の地・慶応義塾開塾の地碑

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蘭学事始の地碑
[『蘭学事始』(らんがくことはじめ)は、文化12年(1815年)、83歳の杉田玄白が蘭学草創の当時を回想して記し、大槻玄沢に送った手記。 上下2編。
『蘭学事始』は、戦国末期の日本と西洋の接触から書きおこし、蘭方医学の発祥、青木昆陽野呂元丈によるオランダ語研究などを記述する。白眉(傑出しているもの)はオランダ医学書「ターヘル・アナトミア」を翻訳する苦心談である。明和8年(1771年)3月4日、前野良沢(豊前国中津藩(現在の大分県中津市)の藩医で蘭学者)、杉田玄白、中川淳庵らは小塚原の刑場で刑死者の腑分け(解剖)を見学し、「ターヘル・アナトミア」のイラストが精確なことに一同感銘して翻訳を決意する。辞書すらない当時の環境下で苦心のうち翻訳を進め、安永3年(1774年)に『解体新書』として刊行する経緯が現場にいた者の目で描きだされた。特に良沢の名は『解体新書』には記されていなかったため、本書で初めて彼の業績が世に知られた。
杉田家の原稿本は安政2年(1855年)の安政の大地震による杉田家の被災で失われ、大槻家の写本もいつか散逸し、完全に失われたものとされて関係者から惜しまれていたが、幕末のころ神田孝平が湯島の露店で偶然に大槻家の写本を見つけ、明治2年(1869年)、玄白の曽孫の杉田廉卿による校正を経、福沢諭吉はじめ有志一同が『蘭学事始』(上下2巻)の題名で刊行した。その後再発行を重ね、日本における西洋医学導入期の当事者による貴重な一次史料としてひろく一般に読まれるようになる。資料として第一級であり、文学性も高い。福沢諭吉は明治23年の「蘭学事始再版の序」で、草創期の先人の苦闘に涙したと記している。  (wikipedia・蘭学事始より)]

慶応義塾開塾の地碑
[慶應義塾の起源は、安政5年(1858)の冬、福澤先生が中津藩奥平家の中屋敷内に開いた蘭学塾に由来し、場所は江戸の築地鉄砲洲にあった。現在の東京都中央区明石町の一部で、いま聖路加国際病院のあるあたりがちょうどその位置にあたるといわれ、そこには昭和33年(1958)4月23日、義塾創立百年記念事業の一つとして、「慶應義塾発祥の地記念碑」が建てられた。  (「慶應義塾の起源:[慶應義塾] – Keio University 」より)]

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」 – 「七[147] – 106/147、107/147、109/147、110/147」(絵図中上に奥平大膳太夫が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図中心より左下方向に奥平大膳大夫中屋敷が描かれています。)

慶應義塾発祥の地記念碑 – Google Map 画像リンク

カメラ南南西方向・安全地帯に蘭学事始の地・慶応義塾開塾の地碑があります。

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