観世太夫屋敷跡

マーカーは観世通り2丁目交差点です。

観世太夫屋敷跡
[銀座の中央通りを1本有楽町側に入った通りは、【1丁目~2丁目】が観世通りで【3丁目から4丁目】がガス灯通りと区別されている。もともと観世通りは、能の観世流の屋敷があったことに由来し、8丁目の金春通りと対称になって親しまれてきた通りの愛称だが、この度、ガス灯通りとして新たに生まれ変わろうとしている。  (「観世通り – amicamat 」より)]

[昔の観世屋敷
徳川幕府から観世太夫が拝領していた屋敷は、江戸京都にあって、江戸は京橋南二丁目に、524坪1勺5合、京都は大宮通糸屋丁に1100坪という豪勢なものだった。京橋は弓町で、屋敷の前の道を観世新道と呼んでいた。亡くなった観世清之の手扣(びかえ)の絵図面には、京橋銀座壱丁目新道、新両替町通字観世新道と書いてある。銀座金春の名が残っているのも同じ理由による。神田猿楽町も、慶長の昔先祖の黒雪斎が、徳川家康から屋敷を拝領したための名称ということである。  故観世左近氏随筆『能楽随想』抜粋  (「中央区立図書館 – 7.弓町の観世屋敷付 銀座地区の御用役衆 安藤菊二(PDFファイル:1039.78 KB)」より)]

観世太夫
[猿楽(のちの能楽観世流の家元のこと。観世流の始祖の観阿弥が、初代の観世太夫。太夫とは、ある種の芸能人の称号、あるいは敬称で、観世、金春宝生金剛の四座の家元をそれぞれ太夫と称し、観世太夫、金春太夫などという。このうち観世座は、徳川家と縁が深かったこともあり、筆頭の地位を得ていた。その家元である観世太夫や一座の人びとの屋敷があったことから、猿楽町という町名が生まれたといわれる。1659年(明暦2)には神田神社(神田明神)の◆法楽【ほうらく】として、観世太夫が勧進能を興行することが許されている。  (「千代田観光協会 – ちよだの人々 – 歴史上人物の一覧 – 観世太夫」より)]
[猿楽町の町名は、慶長頃に現・神田神保町1~2丁目から西神田1~2丁目にかけて猿楽師観世大夫一団の屋敷があったことに由来する。屋敷は万治2年(1659年)の神田川工事の折に移転したという。  (wikipedia・猿楽町_(千代田区)より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図

京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」・「bunko10_08631_p0002.jpg

カメラ位置は2丁目交差点で、カメラ南南西方向、カメラ北北東方向が観世通りです。

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