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諏訪藩関連リンク – 諏訪藩諏訪家中屋敷跡、諏訪藩諏訪家下屋敷跡・相良藩田沼家下屋敷跡
田沼意次関連リンク- 田沼意次上屋敷跡、田沼意正上屋敷跡、新徴組屯所跡(田沼玄蕃頭屋敷跡)、諏訪藩諏訪家下屋敷跡・相良藩田沼家下屋敷跡、相良藩田沼家鉄砲洲下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP769・コマ番号428/553から相良改小久保藩上屋敷の変遷について記載されています。P770・コマ番号429/553「上屋敷 木挽町四丁目」がこの地になります。
[現在は銀座五丁目一二番地~一五番地に当たる地は、『京橋区史』には寛永二年上地後は、加藤喜助(加藤正次)の邸地となったと寛永図を引いて記述している。
加藤氏の後、この地を拝領したのは予州今治の藩主久松氏であった。
松平采女正の屋敷
伊予国今治藩久松氏は、旧封三万五千石。木挽町の上屋敷拝領年月は定かではないが、正保以降享保(1645年-1736年)までの各地図に記載されている。
この屋敷地は、享保三年(一七一八)六月一二日の火災の類焼後、幕命により上地を命ぜられて、麹町に替地を得て移っていった。
松平采女正屋敷上地後明地になっていた期間はごく短く、御具足師の御用屋敷に割与えたり、馬場の設置を許したり、芝西応寺町代地に給与したり、松平下総守の邸地に給したりして、馬場を除いて、大部分はまた屋敷地に戻ってしまっている。
宝暦四年(一七五四)に、明地の馬場を取払って、三、〇〇〇坪を松平下総守に下げ渡したが、明和九年(一七七二)七月には老中田沼意次が、三方相対替でこの地を取得した。一時は飛ぶ鳥を落とすほどに権勢並ぶ者もなかった意次も、松平定信が老中の座に着くと、失政の責を罪科として処断され、加恩二万石は没収、相良城も、大阪蔵屋敷も取り上げられて、木挽町屋敷に引き移り謹慎しているように申渡された。後、嫡孫龍助が一万石を与えられて、僅かにその名跡を襲(つ)いだ。
木挽町原(四丁目)の諏訪家の上屋敷は、文化元年一二月五日に、中渋谷の下屋敷九、三〇〇坪の内一、〇〇〇坪と木挽町四丁目の田沼玄蕃頭屋敷三、〇〇〇坪とを相対替で取得したものであった。後、万延元年七月九日、大名小路の屋敷を御用で差上げた松平和泉守乗全の代地として譲渡した。
諏訪家の上屋敷は、文化元年(一八〇四)から万延元年(一八六〇)まで五四年ほど、この地にあったわけである。 (「37.切絵図考証二四 安藤菊二(PDFファイル:1516.26 KB)」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号40/147「延宝年中(1673年-1681年)之形」左ページに松平駿河守(松平定陳)、コマ番号41/147「宝永年中(1704年-1711年)之形」に松平采女正(松平定基)、コマ番号42/147「享保三年(1718)之形」では明地、コマ番号43/147「享保十五(1730)年之形」では明地と馬場、コマ番号44/147「宝暦年中(1751年-1764年)之形」では御具足師の御用屋敷、馬場、芝西応寺町代地、松平下総守屋敷地が描かれています。コマ番号45/147「安永年中(1772年-1781年)之形」、松平下総守屋敷地跡周辺に田沼主殿頭屋敷地と狩野栄川屋敷が描かれています。コマ番号46/147「文化五(1808)年之形」で田沼主殿頭屋敷地が諏訪因幡守屋敷地になっています。コマ番号48/147からコマ番号53/147「安政三(1856)年之形」まで諏訪因幡守と記述されています。コマ番号54/147「当時之形」で松平和泉守と記述されています。)
[狩野典信は絵を好んだ徳川家治の寵愛深く、子の狩野惟信(かのう これのぶ)や中橋狩野家の狩野永徳高信と共に日々傍らに仕えたという(『続三王外記』[続三王外記 – 古典籍総合データベース – 早稲田大学])。安永6年(1777年)、通常新たな屋敷を拝領すればそれまでの土地は返却するのが習わしであるのに、従来の竹川町の屋敷はそのままに木挽町に新たな土地を拝領した。以後、時代を遡って狩野尚信の家系は、木挽町狩野家と呼ばれる。木挽町の屋敷は田沼意次の旧邸を分与されたものであり、ここから典信と意次は互いに裏門から往来し、意次の密議は常に典信の屋敷で計られたという伝承が生まれた。 (wikipedia・狩野典信より)]
[木挽町狩野家は始め竹川町(現、銀座7丁目内)にあったが、栄川院(狩野典信)の時に、時の執政田沼意次(おきつぐ)の知遇を受けて、木挽町の田沼屋敷(松平下総守の邸地跡)内の西南角に当る、日当たりの好い場所を与えられて、木挽町に住むこととなった。
栄川院は意次に気に入られていたので、常に庭伝いに公と往来していた。それで、公事も直接公の執事と相談するより、間接に栄川院に依頼する者が多かったといわれる。 (「中央区立図書館 – 4.采女町史談 安藤菊二(PDFファイル:1047.70 KB)」より)]
諏訪藩
[諏訪藩(すわはん)は、信濃国諏訪郡周辺を領有した藩。高島藩(たかしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高島城(長野県諏訪市)。
戦国時代、諏訪の地は諏訪神社の大祝(おおほうり)である名門・諏訪氏の支配下にあった。しかし天文11年(1542年)、武田信玄(晴信)の侵攻を受けて諏訪頼重は切腹となり、諏訪氏の宗家は滅亡した。しかし頼重の従兄弟に当たる諏訪頼忠は、武田氏支配下の中で神官として生き残り、1582年に武田勝頼が織田信長・徳川家康の連合軍によって滅ぼされ、さらに同年6月、信長が本能寺の変で横死すると、頼忠は自立して諏訪氏を再興する。その後、信濃に侵攻してきた家康軍と戦ったが、やがて家康と和睦し、その家臣となった。天正18年(1590年)、徳川氏が関東に移封されると、頼忠も家康に従って諏訪を離れ、那波郡惣社へ移封)に所領を与えられた。
代わって日根野弘就の子・高吉が諏訪氏の移った同年に入封する。そして高吉の子・吉明が家督を継いだが、慶長6年(1601年)下野壬生藩に移封(一説には減封)される。
同年、諏訪頼忠の子・諏訪頼水が旧領・高島に復帰した。所領は当初は2万7,000石、のち大坂の陣に参陣した第2代藩主・忠恒はその功績により元和4年(1618年)に5,000石を加増され、3万2,000石となる。第3代藩主・忠晴の時代に忠恒の遺言により忠晴の弟の頼蔭と頼久にそれぞれ1,000石を分知して3万石となった。以後、諏訪氏の支配で明治時代に至った。明治元年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与し、甲州勝沼の戦いや北越戦争・会津戦争に参戦した。
明治4年(1871年)の廃藩置県により高島県となる。その後、筑摩県を経て長野県に編入された。なお、諏訪氏は明治17年(1884年)子爵となり華族に列せられた。 (wikipedia・諏訪藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(安政4年・1857年)」[絵図左上・木挽橋下、諏訪因幡守(諏訪藩)の上・狩野勝川が狩野勝川院屋敷跡です。]
「京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編] 」 – 「請求記号:文庫10_08631 4カット」
カメラ位置は采女橋公園前交差点で、カメラ北方向が諏訪藩上屋敷跡(田沼意次屋敷跡)になります。