マーカーは軍艦操練所跡です。
紀州徳川家下屋敷跡関連リンク – 紀州徳川家上屋敷跡(東宮御所、迎賓館)、紀州徳川家上屋敷跡(清水谷公園・上水石桝)、紀州徳川家浜町中屋敷跡、紀州徳川家浜屋敷(旧芝離宮恩賜庭園)、鍋島松濤公園(紀州徳川家下屋敷跡)、紀州徳川家抱屋敷(徳川宗家徳川家達邸)跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP478・コマ番号283/553から和歌山藩(紀州藩徳川家)屋敷の変遷について記載されています。P480・コマ番号284/553「中屋敷 鉄砲洲 南小田原町」がこの地になります。
講武所跡関連リンク – 講武所跡
紀州徳川家下屋敷
[紀州家八丁堀邸は元来御蔵屋敷で、『南紀徳川史』巻之百六十九に、
『文政十二(1829)年丑年三月廿一日神田佐久間町より出火、大火にて四方火に包まれ、御米蔵及御長屋共不残焼失、橋々流失詰人逃走の地なく四五名焚死す。同年六月二八日鉄砲洲築地堀田相模守(堀田正睦)中屋敷御拝領に付、為代地当邸の内七千弐百八拾四坪御差上、残地千三拾坪は文政十三(1830)年寅年二月十二日三方替地として山田奉行牧野長門守(牧野成文)へ譲渡。』と記述されています。
藩士数人の死者を出した文政一二年の佐久間町火事類焼後、六月廿八日、願の通り、築地南小田原町の堀田相模守中屋敷を拝領、代地として、八丁堀屋敷内七二八四坪を提供し、七月二〇日右の拝領屋敷を築地御屋敷と命名した。 (「35.切絵図考証二二 安藤菊二(PDFファイル:1098.79 KB)」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図(文化3 [1806])」(コマ番号3/5・絵図右下、浜御殿左下方向、松平安芸守下屋敷下に堀田相模と記され、その右下方向、紀伊国ハシ左上に紀伊殿と記述されています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 分間江戸大絵図(天保4 [1833])」(コマ番号5/5・絵図右上、紀伊国バシ左下に堀田相模中屋敷、牧野山シロ中屋敷が描かれ、その左下方向に紀伊殿中屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図中央左方向・紀伊殿下屋敷が描かれ、そこが後に軍艦操練所跡(講武所跡)になります。)
軍艦操練所跡(案内板)
[マシュー・ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857)4月、旗本や御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。万延元年(1860)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区・講武所跡)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(1864)3月には焼失して、南隣の広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。慶応元年(1865)7月、新たに海軍奉行を置き、慶応2年7月には海軍所と改称されました。同年11月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。 平成21年3月 中央区教育委員会]
玉川上水樋管
「玉川上水留. [52] 玉川上水鉄炮州築地講武所掛一件 安政三辰年 分冊ノ一」(7,21,23/72・講武所内の玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [53] 玉川上水鉄炮州築地講武所掛一件 安政三辰年 分冊ノ二」(19/73・講武所内の玉川上水樋管が描かれています。23・34/73・西本願寺方面からの玉川上水樋管が描かれています。)
「京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」・「bunko10_08631_p0003.jpg」
「国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号123/147・「文政十三(1830)年之形」絵図左ページに紀伊殿と描かれています。コマ番号124/147・「安政二(1855)年之形」絵図左ページ下に講武所と描かれています。コマ番号125/147・「当時之形」絵図左ページに御軍艦操練所と描かれています。)
カメラ位置は築地六丁目交差点で、カメラ南方向隅田川西岸までが軍艦操練所跡(紀州徳川家下屋敷跡、講武所跡)です。
カメラ南方向・ロード標識の右に軍艦操練所跡の案内板が設置されています。(Google Maps)(紀州徳川家下屋敷跡範囲:中央区築地6丁目20)
軍艦操練所跡の案内板(Google Map 画像)