軍艦操練所跡(講武所・玉川上水樋管)

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マーカーは築地市場です。

築地
[「築地」は元来埋立地の意味で、東京築地も埋立地である。江戸時代、1657年の明暦の大火の際に焼失した浅草東本願寺の移転のために、佃島の住人によってこの土地が造成された。その後、浄土真宗の寺院や墓地が次々と建立され、周辺は寺町のようになった。ほかの地域は武家屋敷が数多く立ち並んでいた。1869年には築地鉄砲洲(現在の湊から明石町)に外国人居留地も設けられた。このことから在日アメリカ人子弟向けの学校であるアメリカンスクール・イン・ジャパンの校舎が1902年の開校時に設けられていた。また、中津藩藩士福澤諭吉が蘭学塾(慶應義塾)を開いた場所でもある。江戸時代末期、江戸幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設け、後に海軍部門の軍艦操練所を設置、勝海舟らが教授として赴任した。明治維新の後、大名屋敷や講武所跡は明治政府に接収され、太平洋戦争後に日本海軍が解散されるまで、主に海軍用地として使用された。
築地市場・wikipedia-photo、「1862年(文久2年)江戸築地鉄砲洲外国人居留区全景。慶應義塾大学発祥、画面中央左側築山下の平地」・wikipedia-photo、築地海軍省鍛錬場における気球試験の浮世絵・wikipedia-photo  (wikipedia・築地より)]

軍艦操練所跡(案内板)
[マシュー・ペリーによる黒船艦隊の来航後、西洋式海軍の必要性に迫られた江戸幕府は、安政4年(1857)4月、旗本御家人、諸藩の藩士等から希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習や、オランダから輸入した軍艦の運転を練習させる目的で軍艦教授所(後の軍艦操練所)をこの地にあった築地講武所内に創設しました。万延元年(1860)正月に講武所が神田小川町(現在の千代田区講武所跡)に移転をした後には、跡地一帯は軍艦操練所の専用地とされました。元治元年(1864)3月には焼失して、南隣の広島藩主浅野家下屋敷のあった場所(絵図では松平安芸守蔵屋敷)へ仮移転をしています。設立当初は旗本永井尚志が総督をつとめ、長崎海軍伝習所修業生を教授方としていました。その後、向井将監や勝海舟等が頭取をつとめました。慶応元年(1865)7月、新たに海軍奉行を置き、慶応2年7月には海軍所と改称されました。同年11月には再び類焼して現在の旧浜離宮庭園の地に移り、跡地には、日本最初の洋式ホテルである築地ホテル館が建てられました。  平成21年3月  中央区教育委員会]

玉川上水樋管
玉川上水留. [52] 玉川上水鉄炮州築地講武所掛一件 安政三辰年 分冊ノ一」(7,21,23/72・講武所内の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [53] 玉川上水鉄炮州築地講武所掛一件 安政三辰年 分冊ノ二」(19/73・講武所内の玉川上水樋管が描かれています。23・34/73・西本願寺方面からの玉川上水樋管が描かれています。)

軍艦操練所跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向・ロード標識の向こうに軍艦操練所跡の案内板が設置されています。(Google Maps)

資料リンク
京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」・「bunko10_08631_p0003.jpg

国立国会図書館デジタル化資料 – 御府内往還其外沿革図書」- 「七[147] – 123/147」(絵図左下に紀伊殿と描かれています。)、「七[147] – 124/147」(絵図左下に講武所と描かれています。)、「七[147] – 125/147」(御軍艦操練所と描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図

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