采女が原、万年橋

マーカーはカメラ位置です。

万年橋関連リンク – 「築地川跡、数馬橋跡

采女が原
[采女(うねめ)が原(中央区銀座5-15辺り)
今は無いが元銀座東急ホテルがあった所が、采女が原。江戸時代伊予国今治藩松平采女正定基の屋敷があった。享保9年(1724)屋敷は焼けて麹町に移転したが、享保12年に屋敷跡に馬場が出来て盛り場の様になった。しかし、夜は追いはぎが出るくらい寂しい所だった。後に明治から昭和の初めまで、当地を釆女町と呼称された。
国立がん研究センター北側(築地4丁目)、首都高”銀座”入り口の脇に架かった橋が采女橋。橋の下は元築地川で水の流れが今は首都高速道路になって車の流れになった。橋を渡った左側(南)に新橋演舞場、その間に小さな区立の公園があります。その名を、築地川采女橋公園と言います。中にハーブ園を持つ小さいながら洒落た公園です。この辺り一帯が 木挽町と言われ、その北側(橋を渡った右側)が采女町と明治の頃から呼ばれた。今は有りませんが、元銀座東急ホテルがあった所、ここが采女が原と呼称された所です。歓楽街銀座と言えここら辺りは少し離れていますので、大きなビルが多くビジネス街で、落語の舞台程ではありませんが夜も更けると静かな所になります。  (「落語「猫定」の舞台を歩く」より)]

[江戸では、郊外の高田馬場と市中にあった馬場は、その面積の大きさと景観の美しさからいっても、現在の運動公園にふさわしいものであった。江戸名所図絵には、馬喰町馬場、采女ヶ原馬場と高田馬場の三つが描かれ、嘉永二年(1894年)の切絵図では15ヵ所みられるが、馬喰町馬場や高田馬場のように、江戸時代を通じて存続したものは極めて少なくて、大部分は火災後に新たにつくられたり、馬場だったところが、武家地となって消えたりもしている。
馬場の管理はまちまちで近くの町に預けるもの、町奉行らが直接管理するものなどがあった。幕末に町預りになっていたものは、馬喰町馬場、采女ヶ原馬場、小石川馬場、小日向馬場、堀田原馬場、平河町馬場、それに湯島の桜馬場である。町預りについて、馬場のある町とまったく無関係な役所の者が管理するのとでは馬場に対する親しみが違っていたであろうといわれる。もちろん町が預った馬場で、町の子供が遊べないわけはなかった様子で、馬術の行なわれない馬場は、子供たちの格好の遊び場で、江戸名所図絵の馬喰町馬場には、子供が遊んでいるところが描かれている。
采女ヶ原馬場は、享保九年(1724年)までは松平采女正定基の屋敷があったところで、焼失後、馬場とし、火除地も兼ねた。天明五年(1785年)まではもっと広かった。明治まで馬場として残っていたが、明治二年に町家となった。いまの築地の国立ガンセンターの北、采女橋のあたりにあった。采女ヶ原馬場は木挽町が管理していた。馬場の修復や清掃、行き倒れの人があったときの処置は、この町の役目とされた。そのかわり馬場の周辺に助成地を与えられ、講釈師手踊矢場、鳴物入見世物、菓子商などに貸していた。その貸料で馬場の手入れ、清掃人夫賃をまかなっていた。したがって采女ヶ原馬場は890坪あっても、実際馬場として使われたのは半分ぐらいで、他は両国広小路などとよく似たヨシズ張りの興行物でにぎわっていた。  (wikipedia・馬場より)]

[采女ケ原に細長い馬場ができると同時に、(日本橋)橘町四丁目八郎兵衛店忠兵衛という男が、馬場の修覆掃除を請負う代償として、見世物小屋を取建てることを願い出てそれが許可になった。
享保14年(1729年)に、江戸に珍しい話が伝わった、前年(13年)、交趾(こうし)国(今のベトナム)から鄭大威(ていたいい)という者が、広南生まれの二頭の象を連て長崎に着き、この象がはるばる江戸へやって来るというのである。二頭のうち牝は長崎で死んでしまう。象は5月25日に江戸に到着。27日には江戸城車寄において、将軍を初め布衣以上の人々がこれを観覧し、そのあと浜御殿の庭で養育し、一般庶民の見物を許した。後に、山王日枝神社の祭礼に、麹町で大象の作り物を曳いたのは、この時の盛観を模したものであった。象の人気はこのように盛んであったが、困ったのは餌の調達であった。大変な物入りなので15年6月には、象を望むものがあらば、これを「可被下置」という町触が出された。采女ケ原の馬場守忠兵衛は、享保19年6月、こんどは象の年間飼育料を六拾両と見積もり、この費用納入を条件に、馬場続きに、更に商床二十軒、畳床二十軒の建増しを出願、難なくその許可を受けることができた。こうして采女ケ原は盛り場として大きく発展することになった。しかし、夜は昼の賑わいとは打って変わって、森閑たる闇があたりを占領し、菰むしろを抱えた夜鷹が出没するのであった。  (「中央区立図書館 – 4.采女町史談 安藤菊二(PDFファイル:1047.70 KB)」より)]

万年橋
[銀座四丁目交差点と築地方面との間で晴海通り首都高速都心環状線を越えている橋。もともとは築地川を越える橋であった。  (wikipedia・万年橋より)]

采女が原、万年橋資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図左中央付近に采女が原、采女が原の右下に万年橋が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九年」(絵図中央付近「細川越中守」下に「馬場 明地」、その右上に「万年橋」が描かれています。)

京橋南芝口橋築地銕炮洲邉絵図 / 玉香園主人 [編]」・「bunko10_08631_p0003.jpg」(絵図左端・中央に采女が原、万年橋が描かれています)

江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・「采女ヶ原」[図会右ページ中程から上に万年橋、西本願寺(築地本願寺)が描かれています。万年橋に連なる道は現在の晴海通りの位置になります。]

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「采女ヶ原」(2-42)、「采女ヶ原解説-1・左ページ左から3行目より」(2-41)、「采女ヶ原解説-2・右ページ3行目まで」(2-47)

カメラ位置は万年橋西交差点で、カメラ西方向に采女が原がありました。また、カメラ南東が万年橋で、江戸時代にはその向こうに西本願寺が見えた。

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