鉄砲州稲荷

マーカーは鐵砲洲稲荷神社です。

鉄砲州稲荷(鐵砲洲稲荷神社)
[鐵砲洲稲荷神社(てっぽうずいなりじんじゃ)は東京都中央区にある稲荷神社平安時代創建の古社で、京橋地域の産土神である。
平安時代の承和8年4月15日(ユリウス暦841年5月9日)、凶作に悩む荏原郡桜田郷の住民が産土神を生成太神(いなりのおおかみ)として祀ったことに始まる。入江埋立に伴い京橋に遷座し、更に室町時代末期の大永年間に後の新京橋(現・銀座一丁目付近)へ遷座し、八丁堀稲荷神社と称した。江戸時代初期の寛永元年(1624年)、桜川亀島川に合流する地点、稲荷橋南東詰(現・湊一丁目8番地付近)に遷座し、もとあった八幡神社摂社とした。一方、18世紀中期の『事跡合考』によれば、昔八丁堀一丁目南岸にあったが、家屋が過密になり、八丁目に移転したという。江戸の水路網の入り口に位置することから、全国からの船乗りの崇敬を集めた。寛政2年(1790年)には富士塚が築造され、人気を博した。
江戸時代後期には吉田家により湊神社と名付けられ、また「浪ヨケイナリ」とも称された。安政期に歌川広重が描いた『名所江戸百景』「鉄炮洲稲荷橋湊神社」には朱塗りの壁と社殿が見える。
明治元年(1868年)土地が収用され、120m程南の現在地に遷座した。大正12年(1923年)の関東大震災では大きな被害を蒙ったが、昭和10年(1935年)以降本殿や神楽殿が再興され、現在の形が整った。昭和20年(1945年)の東京大空襲では被害を免れ、昭和初期の神社の形式を今に伝える。昭和37年(1962年)には隣地に区内初の児童公園が完成した。
鉄砲洲富士
境内には区内唯一の富士塚がある。富士山の熔岩を用いたもので、頂上には末社鉄砲洲富士浅間神社が鎮座する。寛政2年(1790年)に築造されて人気を集めた。『江戸名所図会』や歌川広重の『絵本江戸土産』では本殿より大きく描かれており、当時かなりの威容を誇ったと思われる。神社遷座2年後の明治3年(1870年)に新地に移築され、明治7年(1874年)再築された。以降明治18年(1885年)、昭和3年(1928年)、昭和11年(1936年)と3度境内内で移築され、現在の高さは5.4mである。
本殿・wikipedia-photo、鉄砲洲富士・wikipedia-photo  (wikipedia・鐵砲洲稲荷神社より)]

「◆『江戸名所図会』には次のように紹介されている。
湊稲荷の社(みなといなりのやしろ)――高橋の南詰めにあり。鎮座の来由、詳(つまび)らかならず。この地は、廻船入津の湊にして、諸国の商ひ船、普(あまね)くここに運び、碇(いかり)を下ろして、この社の前にて積むところの品をことごとく問屋へ運送する。このゆゑにや、近世(ちかごろ)、吉田家より湊神社の号を贈らるる。当社は南北八丁堀の産土神(うぶすな)なり。また、この川口の北に監船所(ふなやくしょ)がありて、船の出入りを改めらる。[『事跡合考(じせきがつこう)』〔柏崎具元、18世紀中ごろ〕にいふ、「この祠(やしろ)、昔は八丁堀一丁目の南岸にありしが、この地、年月を重ねて、家居立ちつづきかれば、八丁目の大川はしに遷せし」とぞ]。
◆鉄砲洲について『江戸名所図会』では次のように記している。
  同書は「銕炮洲」としてしているが、現在一般的に使われている表記は「鉄砲洲」である。
銕炮洲(てっぽうず)――南北へ八町ばかりもあるべし。伝へいふ、寛永[1624-44]のころ、井上(井上正継)・稲富(稲富直賢 – 稲富祐直の弟)ら大筒(おおづつ)の町見(ちょうけん)を試みしところなりと、あるいは、この出州(です)の形状、その器に似たるゆゑの号なりともいへり[白石先生(新井白石、1657-1725。儒者)の説に、この地は明暦火災(1657)後に、桑山伝兵衛某(くわやまでんびょうえそれがし)を奉行として、築(つ)き出だされしとなり。また、ある家珍蔵の旧図に、新出州(しんです)と記してある]。いまは、薪・炭・石などの問屋が多く住せり。「打ち出づる 月は世界の銕炮州 玉のやうにて 雲をつんぬく」半井卜養(*なからいぼくよう=御医官。明石町に住む)  (「八丁堀周辺 歴史案内〈湊・入船・新富〉 – nifty」より)]

鉄砲州稲荷神社ホームページ」 – 「年間行事・神事のご案内

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図」(絵図四つ切右下・松平阿波守の右下方向・八丁堀に架かる稲荷橋左下にイナリと描かれている。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 京橋川筋南之方芝口橋川筋限木挽町築地鉄砲洲辺迄一円之絵図 : 天保九年」(絵図中上方向突端「稲荷橋」右に「稲荷」が描かれています。)

名所江戸百景」・鉄砲洲稲荷橋湊神社「ファイル:100_views_edo_077.jpg

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「佃島其二湊稲荷神社」(2-36)[図会中央下に湊稲荷神社、富士塚が、神社左に稲荷橋が、その左に高橋が描かれている。また、湊稲荷神社の亀島川左岸・高橋の右に描かれているのは御船手向井将監の屋敷と思われる。]、「湊稲荷社解説、鉄砲州解説・右ページ中程から」(2-33)

狂歌江都名所図会 – 鉄砲州稲荷(拡大図)

絵本江戸土産 – 鉄砲州湊稲荷境内の不二(拡大図)

鐵砲洲稲荷神社 – Google Map 画像リンク」、「鉄砲洲稲荷神社 富士塚 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が、鉄砲州稲荷です。また、カメラ南南東方向が本湊町で火付盗賊改方長谷川平蔵が、5歳から19歳まで住んでいた(「八丁堀周辺 歴史案内〈湊・入船・新富〉 – nifty」より)]。

鉄砲州稲荷拝殿前のカメラです。

寒中水浴大会(寒中禊)開催中のカメラです。