長島藩増山家下(中)屋敷

マーカーは長島藩増山家下(中)屋敷跡です。

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP653・コマ番号370/553から長島藩屋敷の変遷について記載されています。P656・コマ番号372/553「中屋敷 裏築地」がこの地になります。

増山正賢
[増山 正賢(ましやま まさかた)は、1754年10月14日、第4代藩主・増山正贇の長男として江戸に生まれる。幼名は千之丞、勇之丞。明和8年(1774年)11月15日、将軍徳川家治御目見する。同年12月18日、従五位下・河内守に叙任する。安永5年(1776年)5月晦日、正贇の死去により、23歳で伊勢長島2万石の家督を相続する。大坂城加番などを歴任する。政治面では無能であったといわれているが、文化面に関しては当時において一流の人物だったと言われている。天明5年(1785年)8月には儒官の十時梅厓に命じて藩校・文礼館を創設し、孔子廟も創設している。また、多くの文化人を招聘して文治の発展に尽力した。正賢自身は山水画花鳥画など書画に優れ、囲碁煎茶などにもその芸域が及んだ。文芸に秀でた文人大名として尊敬を集めた。著書には『松秀園亭舎記』『煎茶式』などがある。
享和元年(1801年)7月5日、48歳で隠居し、長男の正寧に跡を継がせた。その後は江戸巣鴨の下屋敷に住んで悠々自適の生活を送っていたが、このように文化に溺れていったことが、幕府の奢侈禁止令に違反したとして文化元年(1804年)7月に謹慎処分に処されている。文政2年(1819年)1月29日に江戸築地で死去した。  (wikipedia・増山正賢より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」(絵図中央左方向に増山河内守(増山正修)中屋敷が描かれています。)

東京都立図書館アーカイブ – 京橋南芝口橋築地鉄砲洲辺絵図(嘉永6[1853])」(絵図中央左上に増山河内守(増山正修)中屋敷が描かれています。)