マーカーは須坂藩堀家上屋敷跡です。
関連リンク – 須坂藩堀家下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP950・コマ番号519/553から須坂藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 南八丁堀」がこの地になります。
[この南八町堀の上邸「藩邸沿革」に「拝領天保五(1834)年八月上地年月不詳、坪数弐千八百六拾六坪余。」と記してある。天保五年八月に、松平右近将監(上野国館林藩松平斉厚)屋敷を召上げて、一部を地先の町屋と道敷とし、残地が堀内蔵頭(堀直格)の屋敷として下賜されたのである。 (「29.切絵図考証一六 安藤菊二(PDFファイル:1328.58 KB)」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 七」(コマ番号94/147「文政十二(1829)年之形」の左ページに松平右近将監と記述されています。コマ番号95/147「天保五(1834)年之形」では堀内蔵頭と記述されています。)
須坂藩堀家
[須坂藩(すざかはん)は、信濃国高井郡(現在の長野県須坂市常盤町)にあった藩。政庁は須坂陣屋。
坂藩の藩祖は、堀直政の四男・堀直重である。直政は豊臣秀吉の重臣であった堀秀政の一門家老で、元の名字は奥村であった。
直重は早くから徳川家に近づき、徳川秀忠に献身的に仕えたことから、外様大名でありながら譜代大名に準じる待遇を求めたが入れられなかった。当初は1万2千石で立藩したが、第2代堀直升は下総国矢作2千石のうち、1千石を次弟の堀直昭に、三弟と末弟にそれぞれ500石を分知したため、須坂藩は1万石となった。
歴代藩主の多くが大番頭や大坂・駿府・二条城の加番、伏見奉行などの職についている。第9代藩主・堀直皓は藩校「立成館」を創立する。第11代藩主・堀直格は、藩士黒川の協力を得て『扶桑名画伝』を著わす。第12代藩主・堀直武は、先代直格の発案による薬用人参、吉向焼などの国産物育成を中心とした藩財政の改革を行い、さらに心学の導入によって藩政改革を進める。野口源兵衛らを登用した財政改革を行なったが、領民の支持を得られなかったこと、藩財政の逼迫をさらに招いたことから、藩政改革に失敗した。
幕末の藩主・第13代堀直虎は、家老ら41人を粛清し藩政を大きく改革し、洋式軍制を導入する。幕政にあっては、維新の中にあり大番頭などを経て若年寄兼外国総奉行に任じられ、慶応4年(1868年)1月、徳川慶喜に自分の意見が聞き入られなかったため、江戸城中で諌死する。勝海舟は、乱心して自害したとしている。
その後、須坂藩は従来の佐幕の方針を転換し、小山・結城、北越、会津に出兵した。信濃国内の諸藩の中でも特に大勢の藩兵を送り、新政府への恭順の姿勢を明確にした。最後の藩主・堀直明は版籍奉還により知藩事となる。 (wikipedia・須坂藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 築地八町堀日本橋南絵図(嘉永二年・1849年)」[絵図中央に堀長門守(堀直武)上屋敷が描かれています。]
「東京都立図書館アーカイブ – 京橋南芝口橋築地鉄砲洲辺絵図(嘉永6[1853])」(絵図下中央左に堀長門守(堀直武)と描かれています。)
カメラ位置は新大橋通り入船一丁目交差点で、カメラ西南西方向が須坂藩堀家上屋敷跡になります。