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「今昔マップ on the web:時系列地形図閲覧サイト|埼玉大学教育学部 谷 謙二(人文地理学研究室) – 首都圏編」で明治期以降の新旧の地形図を切り替えながら表示することができます。
[人見街道(ひとみかいどう)は、東京都府中市八幡と杉並区大宮の大宮八幡宮を結ぶ、古くからの街道である。別名「大宮街道」「下総街道」「府中道」「八幡通り」。
「人見街道」の名は、江戸以前にあった「人見村」を通る道であった事に由来するもので、地名に「小人見」の名称がある。さらに、北にある浅間山の別名が人見山である。一説には浅間山の別名人見山(小高い丘から敵の情勢を見る意味)からとも。 浅間山を構成する前山尾根上東端に黒い石碑の「人見四郎の墓跡」があるなど、地域の一族「人見氏」にも関係している。
「下総街道」の名は、下総国へ向かっていたとされる事から。
鎌倉街道の一つとして利用されていた本来の人見街道起点は、杉並区浜田山三丁目以東杉並区道となっており「八幡通り」と表示されている。府中市若松町四丁目交差点以西は府中市道となっていてその先は航空自衛隊府中基地敷地内となり通行不可能であるが、旧甲州街道に至るのが本来であり八幡宿に向かっている。 かつては武蔵国三宮氷川神社の神輿が、この人見街道を通り人見村御仮屋まで来て、くらやみ祭りに参加していた。 (wikipedia・人見街道より)]
人見街道は鎌倉街道としては古道ルートがはっきりと特定できる道ですが「今昔マップ on the web」を参考にルート設定をしていきます。
人見街道起点は大宮八幡宮とされています。大宮八幡宮正参道一の鳥居から出発します。
大宮八幡宮は鎮守府将軍・源頼義が前九年の役で奥州に向かう途中、武蔵国にて空に八条の白雲が棚引いているのを見たとさ、これを源氏の白旗が翻ったかのように見た頼義は「これは八幡大神の御守護のしるしである」と喜びこれを吉兆とし出陣したという。頼義は、乱を平定した後の康平6年(1063)に、八条の白雲を見たこの地に石清水八幡宮の分霊を祀り、神社を創建したとされています。また、大宮八幡宮東方向に、寛治6年(1092)、源頼義の子、源義家が大宮八幡宮に参詣のおり、先祖多田満仲を奉祀したことにはじまると伝えられている多田神社があり、両社間には鎌倉街道と伝えられる古道が通じていたともいわれています。
大宮八幡宮正参道一の鳥居前の道も鎌倉古道で、源頼義が創建したと言われる「鷺宮八幡神社」「高松八幡神社」とその先にある板橋区「赤塚城址」に抜けています。
大宮八幡宮正参道一の鳥居前を南方向に進み、方南通りを右折し、南大鳥居前を通り、高千穂大学西側変則十字路を西進し、浜田山四丁目交差点に至ります。浜田山四丁目交差点で交差する南北の道は甲州街道の鎌倉街道入口交差点から神田川に架かる鎌倉橋を渡り、尾崎熊野神社東を抜け、善福寺川天王橋を渡り、成宗城址前を通る鎌倉古道とされています。
次に、浜田山駅入口交差点を通ります。東京都通称道路名「人見街道」はここを起点としています。横倉邸のケヤキ並木、松林寺前を通り、環八通りを横断し進むと、富士見丘北公園際に人見街道案内板が設置されています。
久我山5丁目9地先の二又角に道標として側面に、「これよりみぎいのかしらミち」・「これよりひだりふちうミち」と刻まれた享保七年銘道標付庚申塔が設置されています。その先で、いったん旧道に入ります、旧道には久我山稲荷神社があり、神田川に架かる宮下橋を渡り、旧道を出ますが、旧道出口手前左に大熊稲荷神社がありましたが、現在はマンションになっているようです。
大熊稲荷神社は、「多摩のジョギング道-井の頭池から神田川水辺の道へ」の記述に、
『森泰樹氏の「杉並の伝説と方言」によれば、大熊氏は久我山の旧家で、先祖は 大熊修理亮景勝という小田原北条氏の重臣であったという。天正18年(1590)小田原城が豊臣秀吉に攻められて落城した折、大熊氏は若君を守ってこの地逃れきて、若君を永福寺に預けて匿ってもらい、自らは付近に身を隠していたが、若君は敵方に発覚して殺されたのでやむなく久我山に土着したのだという。』とあります。
旧道から出て、街道を進むと、玉川上水手前に元禄13年(1700)造立の牟礼橋庚申塔があり、そこで右折して玉川上水沿いの旧道に入り、そのすぐ先に玉川上水に架かるどんどん橋と、その北詰めに石橋造立供養塔があります。現在かかるどんどん橋は昭和8年(1933)に架けられたもので、供養塔には寛政9年(1797)と嘉永2年(1849)の二基があります。
玉川上水に架かるどんどん橋を渡り、その先新道を横断して旧道を進み、突き当たって右折して新道に出ます。
人見街道はその先、三角地帯にある牟礼古峰神社の南側、西側の旧道を通り、真福寺山門前に出て、北西方向に進み、文化3年(1806)造立の道供養塔・地蔵前で左折し、牟礼御嶽神社南側を通り、三鷹一小前交差点で右折し、三鷹市役所前を通ります。市役所南側の雑木林内には明和7年(1770)ごろに建てられた鷹場標石があります。
武蔵境通りを抜け進むと、東八道路手前に大沢八幡神社があります。大沢八幡神社は慶長年間(1596-1615)現在古八幡社がある場所で奉祀されましたが、慶長3年(1598)長久寺が創設され、長久寺が大沢八幡神社の別当寺となったため、長久寺傍に遷座、しかし大正6年東京天文台建設に際し現在地に移転しました。また、長久寺境内にも鷹場標石があります。
東八道路を抜け進むと、野川前後に旧道が残ります。旧道で野川を渡ります、野川に架かる橋は相曽浦橋(あいそうらばし)で、新道の橋は御狩野橋(みかりのばし)と言います。
相曽浦橋は、新選組局長近藤勇が幼い頃遊んだ野川にかかる橋で、板橋で一度埋葬された近藤勇の遺体を、兄の音五郎と甥の勇五郎(近藤勇の養子)が掘り起こして故郷まで運びました。その時、この橋で一族が出迎えたと伝わります。
新道に出ると新選組局長近藤勇が眠る龍源寺があり、その先に近藤勇生家跡、その向かいに近藤勇の養子近藤勇五郎が開いた撥雲館があります。
西武多摩川線踏切を渡り、浅間山通りを抜けると人見稲荷神社参道前に出ます。
人見稲荷神社は、寛喜3年(1232)武蔵左衛門尉資頼が三所之宮を造営、武蔵国造兄武比命を祀っていたことから六所宮客来三所之神と称されたといいます。慶長2年(1597)稲荷社等を合祀し、稲荷社と改称しました。人見稲荷神社裏手の浅間山は人見山とも言われ、人見城があったとされ、人見浅間神社、人見四郎の墓跡碑があります。
「府中市」には、
『標高80mの浅間山からは、人見が原合戦場を一望に見渡すことができる。正平7年(1352)に、新田義興・義宗らが 足利尊氏と人見が原・金井原一帯で合戦した。この時代、活躍したのが「人見四郎」である。
人見氏は、埼玉県大里郡を本拠とする武蔵七党の内の猪俣党の人見氏と云われ 、浅間山の麓に一族が来ていたとされる。 近くには、旧村名「人見村」があり、「人見街道」は府中から「人見村」、三鷹等 を経由して大宮まで行く。』と記述されています。
人見街道旧道はこの先、航空自衛隊 府中基地で寸断され、消滅していますので、古い道なりに府中駅前交差点(旧甲州街道)に出て、旧甲州街道を進み、武蔵国府八幡宮参道前を通り、府中宿で終点です。