報土寺

マーカーは報土寺です。

報土寺
[地下鉄赤坂駅の西,徒歩7分。慶長19年(1614年),永受法師によって開かれたと伝えられる寺で,現在の本堂は戦後に再建されたもの。墓地には江戸時代の力士雷電為右衛門の墓があることで知られている。  (「東京ガイド」より)]

[【「港区の文化財 報土寺 築地塀(練塀)」の標識の説明】
報土寺は、慶長19年(1614)に、赤坂一ツ木(現赤坂2丁目)に創建され、幕府の用地取り上げにより安永9年(1780)に三分坂下の現在地に移転し てきました。この築地塀はこのころに造られたものといわれています。築地塀とは、土を突固め、上に屋根をかけた土塀で、宮殿・社寺・邸宅に用いられる塀です。塀のなかに瓦に横に並べて入れた土塀を特に「練塀」ともいいます。報土寺の練塀は、坂の多い港区の中でも特に急坂として知られる「三分坂」に沿っ造られており、塀が弓なりになっている珍しいものです。練塀は区内では残されているものが少なく、江戸の寺院の姿を今に伝える貴重な建造物といえます。
 平成10年9月1日 東京都港区文化財総合目録登録 東京都港区教育委員会  (「三分坂(港区赤坂)」より)]

[【「雷電為右衛門の墓」の標識の説明】
 明和4年(1767)信州長野県小諸在大石村に生まれた。生まれながらにして、壮健、強力であったが、顔容はおだやか、性質も義理がたかったといわれ る。天明4年(1784)年寄浦風林右衛門に弟子入りし、寛政2年(1790)から引退までの22年間のうち大関(当時の最高位)の地位を保つこと、33場所、250勝10敗の大業績をのこした。雲州(島根県松江松平侯の抱え力士であったが引退後も相撲頭に任ぜられている。文化11年(1814) 当寺に鐘を寄附したが異形であったのと、寺院、鐘楼新造の禁令にふれて取りこわさせられた。文政8年(1825)江戸で没した。 昭和50年12月 東京都港区教育委員会設置  (「三分坂(港区赤坂)」より)]

[報土寺の鐘
東京都港区赤坂。文化年間に大火で焼失、雷電の支援を得て復元されたが、「天下無双雷電」と刻まれていたため、幕府から不届きであるとして取り壊された。明治末になってほぼ同じものが再現され、太平洋戦争で軍部に供出され行方知れずとなっていたが、平成になって戻ったもの、という。それぞれの一番鐘をついたのは、文化の復元時には雷電、明治に再現された時は18代横綱大砲万右エ門、平成に帰還した時には58代横綱千代の富士貢だった。(wikipedia・雷電為右衛門より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図」[絵図左中程・松平安芸守(広島藩)中屋敷の下方向に三分坂、報土寺が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション - 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元年(1831年)調」(絵図左中央「松平安藝守」上左方向に「報土寺」が描かれています。)

報土寺 – Google Map 画像リンク

カメラ北西方向が報土寺山門です。カメラ位置は三分坂下で山門右練塀前に坂の標柱が設置されています。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

*