大垣藩戸田家上屋敷跡

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大垣藩戸田家
[大垣藩(おおがきはん)は、美濃国大垣周辺を支配した藩。藩庁は大垣城(現在の岐阜県大垣市郭町2丁目)に置かれた。
江戸時代初期には短期間で藩主として4家が交替したが、寛永12年(1635年)以降は戸田家が10万石で入り、幕末明治維新期まで存続した。
寛永12年(1635年)、摂津尼崎藩より戸田氏鉄が10万石で入って、以後は戸田家の支配で安定する。初代藩主・戸田氏鉄は寛永14年(1637年)の島原の乱で戦功を挙げる一方、地方知行制の廃止と俸禄制度の採用から新田開発、治水、治山、家臣団編成などに尽力して大垣藩政の基礎を固めた。また氏鉄は大垣城の整備を行い、明治に至る姿としている。このほか、氏鉄は文化事業でも儒学書を自ら著作するなどして発展させている。
第11代藩主・戸田氏共は第2次長州征伐に参加し、慶応2年(1866年)から藩政改革を断行している。慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いでは大垣軍と新政府軍が戦い、朝敵に指定される(藩主の入京禁止)。しかし新政府に召されていた家臣の小原鉄心は直ちに大垣に帰国して先々代藩主である氏正とともに氏共や佐幕派を説得して尊王派に藩論を統一して謝罪、戊辰戦争では新政府軍に与して東山道軍の先鋒を務めている。そのため、明治元年8月には鳥羽・伏見の戦いに関連して同年4月に受けた処分が解除され、2年(1869年)6月に新政府から賞典禄3万石が下賜された。直後の版籍奉還で氏共は大垣藩知事に任じられる。  (wikipedia・大垣藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永三年・1850年)」[絵図四つ切右上・戸田采女正(戸田氏正)上屋敷が描かれています。]

東京市拾五区区分全図 第六 赤坂区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切右下・溜池榎坂町の字「坂町」の周辺区域が大垣藩戸田家上屋敷跡になると思います。)

カメラ位置は桜坂下で、カメラ南南東方向ANAインターコンチネンタルホテル東京一帯が大垣藩戸田家上屋敷跡になります。