マーカーは山家藩谷家上屋敷跡です。
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP733・コマ番号410/553から山家藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 麻布龍土」がこの地になります。
山家藩谷家
[山家藩(やまがはん)は、丹波国何鹿郡山家周辺を領有した藩。藩庁は山家陣屋(現在の京都府綾部市広瀬町)。藩主家の谷家は公家の園家を通して皇室との縁が深く、現皇室にも谷家の血が入っている。
藩祖・谷衛友は織田信長・豊臣秀吉に仕え、丹波国山家にて1万6000石を領した。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、衛友は西軍に属して小野木重勝らと行動を共にし、東軍に与した細川藤孝(細川幽斎)の丹後国田辺城を包囲する。しかし、西軍に属したのは本意でなかったため、歌道の師匠でもあった藤孝に内々に通じており、そのため、戦後は徳川家康から所領を安堵されている。
山家藩は、明治時代まで谷氏13代の支配が続いた。
しかし2代衛政の代に、弟の衛冬に1,500石(梅迫谷氏)、甥の衛之に2,500石(上杉谷氏)、衛清に2,000石(十倉谷氏)を徳川将軍家に直属する旗本家として分知したため、以後、藩の石高は1万石となった。
山家は山地が多く、稲作に適していなかったため、林業や特産品である黒谷和紙が藩財政を支えた。
明治維新期の動乱においては、いち早く官軍方に恭順を示した。明治4年(1871年)、廃藩置県により山家県となり、京都府に編入された。 (wikipedia・山家藩より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央下・毛利大膳太夫中屋敷左に谷播磨守(谷衛弼)上屋敷が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図右下に谷播磨守(谷衛弼)が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション - 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元年(1831年)調」(絵図中央下・谷播磨守と描かれています。)
カメラ位置は乃木坂上で、カメラ北東方向一帯が山家藩谷家上屋敷跡になります。