広島藩浅野家中屋敷跡(現赤坂サカス)

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マーカーは赤坂サカスです。

広島藩浅野家
[広島藩(ひろしまはん)は安芸国一国と備後国の半分を領有した藩で、現在の広島県の大部分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。
豊臣政権下で五奉行を務めた浅野長政の次男・浅野長晟が安芸1国・備後8郡の42万6000石で入封した。広島は大坂との瀬戸内海航路の海運に恵まれ藩成立の早期より木材・鉄・紙などの専売を敷いた。また、米相場を巧みに利用し、自藩の米のみならず他藩の米を安く仕入れ相場を見極めて売りさばき巨利を得て、「芸侯の商売上手」と江戸時代中期の学者・海保青陵(儒学・経済学)より評された。
第4代藩主・浅野綱長浅野綱晟の長男)時代の元禄14年(1701年)、分家の赤穂藩主・浅野長矩が刃傷事件を起こすに至ったが、この事件を受けて広島藩は、事が大きくなって浅野本家に一族連座するのを避けるため、進藤俊重小山良速など赤穂藩重臣たちの親族の藩士を次々と赤穂藩へ派遣して開城圧力をかけたり、その後の大石良雄の盟約にも切り崩しをはかり、進藤俊式小山良師ら大石側近を説得して脱盟させている。もっとも討ち入りそのものの阻止は失敗した。しかし、数年後、赤穂浪士の英雄化に伴い、態度を一変させて大石良雄の三男・大石大三郎など赤穂藩の旧臣を召抱えるようになった。
慶応2年(1866年)に第14代将軍・徳川家茂が死去し、第2次長征が事実上幕府軍の敗退に終わると、広島藩は次第に長州藩の影響を受けるようになり、慶応3年(1867年)には長州藩・薩摩藩と同盟を結ぶに至った。しかしその一方で、第15代将軍・徳川慶喜大政奉還を推進するなどしている。このため、広島藩は後の明治政府の中枢から排除されることにはなったが、官軍に加わって戊辰戦争を戦った。  (wikipedia-広島藩より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図」(絵図中央左に松平安芸守中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション - 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元年(1831年)調」(絵図左中央に「松平安藝守」と描かれています。)

赤坂サカス
[赤坂サカス(akasaka Sacas)は、東京都港区赤坂5丁目に所在する再開発複合施設。赤坂サカスの「サカス」は、桜を咲かすという意味であると同時に、赤坂にたくさんある坂=坂s=「サカス」の意味もある。また「赤坂サカス」のローマ字表記「akasaka Sacas」を後ろから読むと「SACA・SAKA・SAKA」=「坂・坂・坂」となる。
計画当初は「TBS赤坂5丁目再開発計画」と呼ばれていたもので、1994年(平成6年)に東京放送(現:東京放送ホールディングス)がTBS放送センターへ本社演奏所が移転した後の旧社屋跡地(2003年まで赤坂メディアビルとして使用)の再開発を目的に、土地所有者である東京放送とディベロッパーである三井不動産によって行われた計画である。2008年(平成20年)3月20日にグランドオープンした。一時閉館していた赤坂BLITZや、赤坂ACTシアターも全面リニューアルオープンした。
Sacas坂・wikipedia-photo、赤坂Bizタワーアネックス1(2008年12月撮影)・wikipedia-photo、赤坂 ザ レジデンス・wikipedia-photo、夕暮れの赤坂サカス(手前は赤坂Bizタワーアネックス1、後ろにTBS放送センター)・wikipedia-photo、夕暮れの赤坂サカス(赤坂Bizタワーアネックス隣の通り)・wikipedia-photo、夜の赤坂サカス・wikipedia-photo、夏サカス2011~笑顔の扉~会期中の赤坂サカス・wikipedia-photo  (wikipedia-赤坂サカスより)]

カメラ西方向が赤坂サカスで、カメラ西方向左の低いビルが赤坂Bizタワーアネックス1で右の高いビルが赤坂Bizタワーです。

カメラ北西方向が広島藩浅野家中屋敷跡(現赤坂サカス)です。カメラ北方向右手前が赤坂Bizタワーアネックス1でその奥が赤坂Bizタワーです。

カメラ西南西方向がTBSテレビです。

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