延岡藩内藤家中屋敷跡

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関連リンク – 延岡藩内藤家上屋敷跡(文部科学省)

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP694・コマ番号391/553から延岡藩屋敷の変遷について記載されています。P697・コマ番号392/553「下屋敷 六本木」がこの地になります。

内藤政義
[内藤 政義(ないとう まさよし)は、近江彦根藩主・井伊直中の十五男。井伊直弼(直中の十四男)の異母弟に当たる。

文政3年(1820年)3月3日に生まれ、彦根での元服後の初名は直恭といった。天保5年(1834年)7月、藩主であった兄・直亮(直中の三男)の招きで、兄・直弼とともに彦根から江戸へ赴く。嗣子のいなかった延岡藩内藤政順の養子候補者に挙げられたためである。その結果、選ばれた直恭は政順と養子縁組し、政義と改名した。なお、直弼は翌年8月に彦根へ帰国し、以後は長らく部屋住みとなった。
天保5年(1834年)10月13日、養父・政順の死去により、家督を相続した。同年12月、従五位下能登守に叙任された。藩政においては天保12年(1841年)、嘉永元年(1848年)の相次ぐ飢饉における救済対策、軍制改革、学制改革、新田開発などの改革に従事している。嘉永3年(1850年)、藩校学寮を「廣業館」と改称した。
文久2年(1862年)10月24日、養嗣子の政挙に家督を譲って隠居した。  (wikipedia・内藤政義より)]

内藤政挙
[内藤 政挙(ないとう まさたか)は、嘉永5年(1852年)5月10日、遠江掛川藩太田資始の六男として江戸で生まれる。万延元年(1860年)に延岡藩の第7代藩主内藤政義の養子となり、文久2年(1862年)10月24日に政義が隠居したため家督を継いだ。
幕末の動乱の中で、政挙は実家の太田家、養子先の内藤氏ともに徳川家譜代の家臣だったことから、佐幕派として行動し、元治元年(1864年)の第1次長州征伐慶応2年(1866年)の第2次長州征伐では幕府軍の一員として参戦した。
慶応4年(1868年)1月の鳥羽・伏見の戦いの際には政挙は在国していたが、大坂駐在の藩兵が旧幕府軍の命令を受けて警備の任を受けていたことから、新政府より朝敵と認定される。政挙の代わりに京都に詰めていた重臣の小林祐蔵は直ちに弁明を行うとともに、薩摩藩熊本藩に周旋を依頼している。政挙も2月7日に新政府に従う旨の誓約書を薩摩藩に提出している。その後、上京して弁明することを命じられた政挙は4月5日に入京して新政府による糾問を受けた後、5月10日になって部下(大坂駐在の藩兵)の不行届を理由に謹慎100日余の処分を受けたものの、責任者とされた部隊長2名は釈放され、これによって事実上の赦免とされた。戊辰戦争では甲府城勤番など後方警備のみを命じられた。
明治2年(1869年)6月の版籍奉還で延岡知藩事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で知藩事を免官された。その後、東京へ移り慶應義塾に学ぶが、眼病のため退塾した。しかし、原時行など多くの旧藩士を慶應義塾で学ばせている。明治9年(1876年)に宮中勤番に任じられ、さらに明治14年(1881年)には宮中祗候に任じられる。明治17年(1884年)の華族令子爵に列せられた。
明治23年(1890年)に西南戦争や明治17年(1884年)の延岡大火で衰微した旧領の復興と教育振興のため延岡に戻って定住した。その後、小林乾一郎を家令に任命して家政を改革させた。また、藩校の系譜を引く亮天社を中学校として整備し、宮崎県立延岡中学校へとつなげた。加えて、女子教育のため女児教舎を設立し、延岡高等女学校へと発展させていくが、県庁所在地を除いた地方における女子中等教育の先駆的事例である。延岡中学の県立移管後も、高等女学校は昭和期まで内藤家が経営にあたった。さらに笠原鷲太郎を招聘して日平銅山の経営に着手した。明治29年(1896年)3月には銅山内に日平尋常小学校を設立して従業員子弟の教育に配慮している。
明治43年(1910年)1月には延岡電気所を設立した。電力事業は築港とあわせ、今日の旭化成につながる日本窒素の工場誘致の呼び水となり、今日の延岡市の経済的基礎を築くこととなった。  (wikipedia・内藤政挙より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図下中央右に内藤能登守(内藤政義)中屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元(1831)年調」(絵図下中央右に内藤備後守(内藤政順)と描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第七 麻布区全図 – 特別区協議会」(地図四つ切右上・三河台町12-14番が延岡藩内藤家中屋敷跡になります。)

カメラ位置は閻魔坂上で、カメラ北方向が延岡藩内藤家中屋敷跡になります。