吉井藩松平(鷹司)家上屋敷跡

マーカーは明石藩松平(越前)家上屋敷跡です。

関連リンク – 吉井藩松平(鷹司)家下屋敷跡

国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP544・コマ番号316/553に吉井藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 赤坂薬研坂」がこの地になります。

吉井藩松平(鷹司)家
[吉井藩(よしいはん)は、上野国多胡郡吉井(現在の群馬県高崎市吉井町吉井)に存在した藩。藩府は吉井陣屋に営まれた。
宝永6年(1709年)4月6日、松平信清は上野国内において3000石を加増されて1万石の大名となり、陣屋を矢田(現在の高崎市吉井町矢田)に置いて吉井藩を再立藩した。このため、松平家時代の吉井藩は矢田藩とも呼ばれる。幕末期の元治元年(1864年)7月21日、第9代藩主・信発が陣屋を吉井に移したため、正式に吉井藩となった。
最後の藩主家となった松平家(鷹司松平家)であるが、この家は五摂家の一つ鷹司家から分かれており、鷹司信平(信清の祖父)が徳川家光御台所鷹司孝子の弟という縁で江戸に入ったことから始まった。信平は承応3年(1654年)3月10日、松平姓を与えられて松平信平と名乗った。延宝2年(1674年)には上野と上総国両国内において7000石の知行を与えられた。その後、嫡男の信政、その子の信清に家督が継がれ、信清の時代に1万石の大名となった。小藩ながらその待遇は国主格、あるいは御三家と同様に遇されていた。
しかし石高自体は小さく、第5代藩主・信成の頃から財政難が始まる。信成は寛政9年(1797年)に倹約令を出したが、効果はなかった。第7代藩主・信敬も倹約令などを出して財政再建を主とした藩政改革を行ったが、やはり効果はほとんど無かった。第9代藩主・信発安政6年(1859年)、常陸水戸藩主・徳川斉昭蟄居の命を伝える上使を務めた功績から、莫大な恩賞を授かっている。藩政においても農民兵を採用した軍制改革を行っている。最後の藩主・信謹は慶応4年(1868年)2月22日、徳川家との訣別を表すためにか、松平姓を捨てて吉井姓に改めている。その後、戊辰戦争では新政府側に与して戸倉に出兵した。
明治2年(1869年)の版籍奉還は上野国の諸藩に先駆けて行い、信謹は知藩事となる。しかし同年12月25日、信謹は知藩事を辞し、吉井藩は廃藩となった。  (wikipedia・吉井藩より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央左、紀伊殿上屋敷左に松平左兵衛督(松平信発)上屋敷が描かれています。)

カメラ位置は赤坂警察署前交差点で、カメラ南西方向が吉井藩松平(鷹司)家上屋敷跡で、現在の秋篠宮邸の南側庭園から赤坂警察署南側道路までになります。