永井荷風旧居(偏奇館跡)

マーカーは偏奇館跡碑です。

偏奇館跡
[偏奇館跡
小説家永井荷風が、大正九年に木造洋風二階建の偏奇館を新築し、二十五年ほど悠悠自適の生活を送りましたが、昭和二十年三月十日の空襲で焼失しました。
荷風はここで「雨蕭々(あめしょうしょう)」「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」などの名作を書いています。
偏奇館というのは、ペンキ塗りの洋館をもじったまでですが、軽佻浮薄な日本近代を憎み、市井に隠れて、滅びゆく江戸情趣に郷愁をみいだすといった、当時の荷風の心境・作風とよく合致したものといえます。
    
冀(ねが)くば来りてわが門を敲(たた)くことなかれ
われ一人住むといへど
幾年月(いくとしつき)の過ぎ来(こ)しかた
思い出の夢のかずかず限り知られず
                「偏奇館吟草」より

平成十四年十二月          港区教育委員会]

[現港区の地域での空襲被害はどのようなものだったのでしょうか。記録によると最初は昭和19(1944)年11月24日、B29による東京湾上の第五・第六台場への爆撃でした。その6日後に浜松町や六本木方面に被害を出し、死傷者も出ました。その後は頻繁に空襲が続くようになっていきます。特に被害が大きかったのは、一般に「東京大空襲」という時に指す昭和20(1945)年3月10日と、「東京山の手大空襲」と呼ばれる同年5月24日、25日の空襲で、一帯は焼け野原と化しました。
昭和20(1945)年3月10日の空襲
「東京大空襲」として知られるこの空襲では、上野、浅草、深川などの「下町」が焼き尽くされ、一晩でB29が300機以上来襲、1千500トン以上の焼夷弾を落とし、約10万人の死者、100万人以上の罹災者が出たとされています。この時港区でも、赤坂区檜町や青山一帯、麻布区飯倉から三河台町にかけて大きな被害を受けました。
 作家・永井荷風は、麻布市兵衛町にあった「偏奇館」と呼ぶ自宅が焼け落ちる前後の様子を、日記に詳しく書き残しています。

 【三月九日。天気快晴。夜半空襲あり。翌暁四時わが偏奇館焼亡す。火は初(はじめ)長垂(ながたれ)坂中ほどより起(おこ)り西北の風にあふられ忽(たちまち)市兵衛町二丁目表通りに延焼(えんしょう)す。余は枕(まくら)元の窓(まど)、火光(かこう)を受けてあかるくなり、鄰人(りんじん)の叫(さけ)ぶ声のただならぬに驚(おどろ)き日誌(にっし)及(および)草稿(そうこう)を入れたる手革包(かばん)を提(さ)げて庭に出でたり。谷町辺にも火の手の上るを見る。また遠く北方の空にも火光の反映(はんえい)するあり。火星(ひのこ)は烈風(れっぷう)に舞(ま)ひ紛々(ふんぷん)として庭上に落つ。( 『断腸亭日乗(だんちょうていにちじょう)』】

荷風はこのあと、避難路を確認した上で26年間住み慣れた家が焼け落ちるさまを見届けようとしますが、火の勢いが激しく近寄れなくなり、ただ偏奇館の方でひときわ高く火炎が上がるさまを眺ながめました。翌日には焼け跡を訪れ、「ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり」と感慨を記しています。 「偏奇館」の跡地一帯は現在では泉ガーデンタワーになっており、偏奇館跡の碑が建てられています。

一晩にして計10万人以上の死者が出たといわれるこの空襲での芝・麻布・赤坂の3区内の被害は、死者100人以上、4千戸以上の焼失というものでした。  (「第1部「港区と戦争」(11ページ~51ページ)(PDF:5152KB)」より)]

偏奇館跡 – Google Map 画像リンク

カメラ西北西方向に偏奇館跡碑があります。