溜池(洗い堰・玉川上水樋管)

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マーカーはカメラ位置です。

溜池
[もともと水の湧く沼沢地であり、その地形を活かしたまま外濠に取り込んだものである。江戸時代中期から徐々に埋め立てられ、明治後期には完全に水面を失ったとされる。現在は、細長かった溜池の長軸を貫く形で外堀通りが走っている。
「広重「名所江戸百景」に描かれた江戸末期の溜池。赤坂見附駅近辺から南東を望む。」・ 赤坂桐畑wikipedia-photo  (wikipedia・外濠_(東京都)より)]

[元治元年(1864年)の「麹町六丁目尾張屋清七版」の「麹町永田町外桜田絵図」をみると赤坂見附の赤坂御門から山王下を抜けて現在の特許庁日本財団の辺りにある堰まで、細長い溜池になっている。特許庁の前にある堰から出た水は文部省の辺りにある虎ノ門新橋御門を抜けて海へ繋がっている。現在の赤坂見附から虎ノ門までの「外掘通り」は、かつて「溜池」と呼ばれた江戸城の外掘りであった。
この溜池は清水谷に水源を持つもので長さが約1.4キロ、幅45メートルから190メートルもあったという。上野の不忍池に次ぐ大きさであったといわれ、神田上水ができるまでは江戸の上水源でもあった。
溜池は、江戸時代中期にも一部埋め立てられ、明治8年頃(1875年)から本格的に埋立てが始まった。そして、明治15年(1882年)に今の特許庁付近に工部大学校(東京大学工学部の前身)を建設するため、堰の幅を広げると、急速に水が減少し、明治18年 (1885年)には湿地帯の中に細々と川が流れている状態になる。そして、明治21年(1888年)に、池であった場所に「溜池町」ができた。翌明治22年(1889年)になると池はほぼ埋め立てられ、その溜池町も昭和41年(1966年)には赤坂1・2丁目となった。
このため現在では溜池の面影はないが、総理大臣官邸下の外掘り通りの「溜池」という交差点と、東京メトロ銀座線の「溜池山王」という駅名にその名を残すのみである。
さて、この溜池は江戸時代に作られた人造の池である。慶長11年(1606年)に家康公に恩義を感じた和歌山藩浅野幸長の家臣で甲州武田家の遺臣「矢島長雲」が、現在の特許庁前交差点附近に堰を造って水をせき止めたのが、本格的な溜池の始まりであるといわれる。堰を越えて流れ落ちる水の音がとても大きく、「赤坂のドンドン」と呼ばれていた。
二代将軍秀忠公の時代には、琵琶湖の鮒や京都の淀の鯉を放したり、蓮の花を 植えたりして上野の不忍池に匹敵する江戸名所になり、その眺望は四季を通じて美しかったようである。池の辺りは、茶屋が何軒も並び、赤坂田町、赤坂新町など、早くから町家が発達した。三代将軍家光公も子供のころこの溜池で泳いだと伝えられている。
さらに、溜池を含めた外堀は赤坂御門から虎之御門までの間は橋がなかったため、明治初めまで、北岸の高台にある日枝神社と赤坂田町との間に渡し舟があった。
切り絵図を見ると溜池の南側には桐木が植えられている。これはこの溜池を作る工事を行った矢島長雲がこの功績を後世に伝えるため、池の堤に紋所の榎を植えたと 『江戸名所図会』にある。現在ではアメリカ大使館から赤坂のツインタワーに下りる「榎坂」はその名残であるという。  (「麹町ウぉーカーNo109(溜池の由来)」より)]

溜池資料リンク
玉川上水樋管 – 「玉川上水留. [59] 玉川上水赤坂柳堤通仮樋枡御修復一件 安政三辰年四月より同十月 分冊ノ四」(20/75・溜池(洗い堰)南の玉川上水樋管が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図 」(絵図右下に溜池が描かれている。)、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図

国立国会図書館デジタルコレクション - 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元年(1831年)調」(絵図右上に大溜と描かれています。)

江戸名所図会」(画像は国立国会図書館ウェブサイトより取得)・溜池

江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「溜池白山祠」(7-17)、「溜池」(7-18)、「溜池解説・右ページ3行目より」(7-19)

カメラ北西方向が特許庁の正面玄関で、カメラ位置付近に溜池の洗い堰があったようです。

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