篠山藩青山家下屋敷跡(元玉窓寺跡)

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国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP818・コマ番号453/553から篠山藩屋敷の変遷について記載されています。P820・コマ番号454/553「中屋敷 青山 赤坂区青山北町一ニ三丁目付近」がこの地になります。

玉窓寺跡
[玉窓寺は、慶長年間(1596-1615)青山常陸介忠成朝臣の邸内に設けられた位牌所を起源とし、青山忠成の娘川口長三邸の内室(法名玉窓秀珍大禅尼)が慶長六年(1601)歿去、川口家が初檀家となり、青松寺八世勅特旨賜普光禅師頭室伊天大和尚を勧請開山として赤坂に創建したといいます。明治12年に境内が皇居(赤坂御所)として接収されることとなり、現在地(港区南青山2-7-13)へ移転したといいます。  (「玉窓寺|港区南青山にある曹洞宗寺院 – 猫の足あと」より)]

青山忠成
[青山氏三河国額田郡百々村出身の国人で、忠成の父・忠門(青山忠世の子)が松平広忠徳川家康に仕えたことから記録に残る。忠成は若年期から家康に近侍していたが、元亀2年(1572年)、父が武田信玄との戦いで討死したために家督を継いだ。
家康の信任は厚く、天正13年(1585年)には家康の三男・秀忠の傅役に命じられた。天正16年(1588年)には秀忠に従って上洛、豊臣秀吉によって従五位下常陸介に叙任されている。さらに天正18年(1590年)、家康が関東に移封されると江戸町奉行に任命され、5,000石(文禄元年(1593年)には2,000石加増)の領地を与えられた。また、原宿村を中心に赤坂の一部から上渋谷村にかけての広い屋敷地を賜っており、現在の東京都青山の地名は、屋敷地の一部であったことが由来といわれている。なお一時期、青山氏が改易された際に屋敷地も没収され、広大な土地には毛利氏の別邸など大名屋敷が林立することとなったが、後に大名として復帰した際にも以前ほどではないものの小大名とは思えないほど広大な敷地を有していた。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおいては秀忠の軍に従軍し遅参したものの、翌慶長6年(1601年)に常陸江戸崎1万5,000石の所領を得ている。さらに江戸奉行・関東総奉行を兼任し、江戸開府後も本多正信内藤清成と共に老中として幕政において重きをなした。慶長11年(1606年)、内藤と共に一時蟄居を命ぜられているがすぐに赦免されている。同年1万石を加増され、所領は2万5,000石となった。  (wikipedia・青山忠成より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – ゑ入江戸大絵図(出版年月日-貞享1(1684)刊)」(絵図四つ切右上・紀伊中納言殿右上に青山和泉守と青山家宗家4代青山忠雄(浜松藩2代藩主)が描かれ、その左方向に玉窓寺が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央左、紀伊殿上屋敷左に、玉窓寺とその上下に青山下野守(青山忠良)下屋敷が描かれています。)

カメラ北北西方向は赤坂御用地 南門で、この付近に玉窓寺が、その両サイドに篠山藩青山家下屋敷があったと思われます。