紀伊徳川家家老久野家屋敷跡

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紀伊徳川家家老久野家屋敷跡
[文政年間、増田繁亭金太郎の住居は、一行寺(現在の浄土宗一行院)隣の「紀州久野丹波守」の屋敷にあった。
 紀州久野丹波守は、代々紀州徳川家の家来で、伊勢(三重県)の田丸城の城代を兼ねていた。
 その向かいの花房家については、水野忠暁の「草木錦葉集」に、水野忠暁が「極白の斑(入り)南天」を譲ったと記されている(「草木錦葉集 巻乃六 十二丁」)。
 増田繁亭金太郎は、水野忠邦天保の改革により奢侈禁令に触れ、闕所の罪(けっしょのつみ)により江戸四谷の大木戸門外に追放の憂き目に遭った。理由は、鉢物は十両、百両といった高価で取引されるようになったため自身も莫大な利益を上げた、園芸ブームが身分を越えて広まり身分制社会を基礎としていた幕府体制と相容れなかったことである。
 闕所の罪の後、増田繁亭金太郎の家屋敷は紀州徳川家の下屋敷となり、家老久野丹波守の住居となったのである。  (「千駄ヶ谷・鮫ヶ橋・四ツ谷絵図 文久三年尾張屋清七版 「草木奇品家」」より)]

[鮫川の水源は永井家屋敷山下と鐙ヶ淵(現若葉公園)の2箇所で、元鮫河橋北町で合流し、鮫川橋付近で紀伊徳川家家老久野家(久野純固)屋敷から千日谷に沿った西方からの流れと合流し、紀伊徳川家中屋敷内の池に注ぎ、最終的に赤坂溜池に至った。
鎧ヶ淵は源義家が鮫河に転落した際に落としたと伝えられる鐙が遺された伝承がある淵で、江戸時代初期には八幡宮に安置されていたが、後に廃され、陽光寺抱地となった。近代になっても、晴れた日の正午頃、池に反射する光が金の鐙からの光として有難がられる光景が見られたが、四谷区内の下水に溜まった泥の廃棄場となり、消滅した。
江戸時代初期の時点で水流は僅かだった。橋は長さ2間(約3.6m)、幅2間の板橋と至って小規模なものだった。  (wikipedia・鮫河橋より)]

紀伊徳川家家老久野家屋敷資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸絵図. 9号」(コマ番号2/5・絵図四つ切左上、一行寺右下の紀伊殿抱屋敷が久野丹波守屋敷です。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 四ツ谷絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図右中央付近・一行寺右下に久野丹波守屋敷、その下に花房銕之丞が描かれています。)

東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国赤坂区青山北町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治17・1884年)」(地図中央・一行院左下、青山六軒町の上の区画が紀伊徳川家家老久野家屋敷跡と思われます。)

カメラ位置は首都高速4号線、外苑東通り出口で、この付近が紀伊徳川家家老久野家屋敷跡になるのではないかと思います。