西大平藩大岡家中屋敷跡(元赤坂小学校)

マーカーは西大平藩大岡家中屋敷跡(元赤坂小学校)です。

関連リンク – 「西大平藩大岡家上屋敷跡

西大平藩大岡家中屋敷跡(元赤坂小学校)
[越前守が晩年に三河西大平藩(みかわにしおおひら・愛知県岡崎市)一万石の大名に任命された時、信仰していた三河の「豊川稲荷」を本山(ほんざん)から分霊(ぶんりょう)して、赤坂の自邸の庭に祀ったのが、赤坂の豊川稲荷の起源となったからである。文政十一年(1828)には、大岡家の門戸が開かれて一般の参拝が許されるようになった。なぜならば、当時は稲荷信仰が極めて盛んで、三河の豊川稲荷の本山へ詣でる「豊川参り」は、「伊勢参り」に次いで人気を集めていた。が、関東の信者にとって三河はあまりに遠く、江戸府下で参拝出来る分霊所が信者から熱望されていたためであった。また、この頃、大岡越前守の名声は全国的に広まり、吉宗によって稀有の出世を遂げた越前守にあやかろうと、開運出世を願う一般の人々や、とりわけ芸道を業(なりわい)にする人の豊川稲荷信仰が日を追うごとに高まっていった。時は流れ、信者が増えて手狭になった豊川稲荷は大岡家敷地内から移されることになり、明治二十年に道路を隔てた斜め向かいの現在の地に遷座された。
下屋敷跡は大正五年に隣の赤坂小学校が校地拡張した際、敷地の一部が校地の一部となった。知性を重んじた越前守にふさわしいご縁であるが、その赤坂小学校も、児童数激減のため、廃校になることが昨年決まった。  (「豊川稲荷と大岡越前守 その1 | 赤坂街歩き」より)]

西大平藩大岡家中屋敷跡資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション - 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元年(1831年)調」[絵図左上・井上左太夫上に大岡紀伊守(大岡忠愛)が描かれています。]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(安政4年・1857年)」[絵図左上に大岡紀伊守中屋敷(大岡忠愛・大岡忠敬)が描かれています。]

カメラ南東方向が西大平藩大岡家中屋敷跡(元赤坂小学校)です。(2013年の画像で、旧小学校は現在解体されています。)

大岡忠相
[大岡 忠相(おおおか ただすけ)は、江戸時代中期の幕臣大名。大岡忠世家の当主で、西大平藩初代藩主。生家は旗本大岡忠吉家で、父は美濃守・大岡忠高、母は北条氏重の娘。忠相の子孫は代々西大平藩を継ぎ、明治時代を迎えた。大岡忠房家の4代当主で、9代将軍・徳川家重側用人として幕政においても活躍したことで知られる大岡忠光(後に岩槻藩主)とは遠い縁戚に当たり、忠相とも同族の誼を通じている。
8代将軍・徳川吉宗が進めた享保の改革町奉行として支え、江戸の市中行政に携わったほか、評定所一座に加わり、地方御用や寺社奉行を務めた。越前守だったことと『大岡政談』や時代劇での名奉行としてイメージを通じて、現在では大岡越前として知られている。通称は求馬、のち市十郎、忠右衛門。は忠義、のち忠相。  (wikipedia-大岡忠相より)]

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