赤坂門外定火消屋敷跡(現豊川稲荷)

マーカーは豊川稲荷です。

赤坂門外定火消屋敷跡
[6.赤坂門外(あかさか-もんがい。港区 元赤坂1・豊川稲荷)
痴楽の落語「ラブレター」で訪れた豊川稲荷です。赤坂見附の交差点が赤坂御門跡ですから、文字通り門外にあります。町火消しを創設した大岡越前守邸宅の邸内神がこの豊川稲荷で、青山通りを挟んで向かい側にも敷地はありました、と言うより青山道路が広がって寸断されてしまったのです。  (「第156話落語「火事息子」(かじむすこ) 」より)]

[幕末にかけての武家火消の活動
享保の改革による町火消の確立後、幕末にかけて江戸の消防体制は武家火消主体から町火消主体へと移行していく。元文元年(1736年)以降、方角火消は江戸城風上の火事か大火の場合のみ出動と改められる。寛政4年(1792年)には、定火消が町人地へ出動しないことになった(風の強い日に起きた火事のみは例外であった)。文政2年(1819年)には定火消の出動範囲が江戸の郭内に限定され、郭外は町火消の担当となった。こうした武家火消の出動範囲減少は、町火消の能力が幕府に認められたためであった。
黒船来航から2年後の安政2年(1855年)、定火消が2組削減されて8組となる。文久2年(1862年)には方角火消と火事場見廻役が廃止され、所々火消も削減されて担当が11箇所から3箇所となった。慶応2年(1866年)には定火消8組が半減されて4組に、翌慶応3年には1組128名のみの構成となり、江戸の消防体制は町火消へ全面的に依存するようになる。この定火消の大幅な削減は、幕府の洋式軍備拡大が原因であり、大名火消の削減は文久の改革による参勤交代の緩和が原因であった。
明治元年(1868年)、新政府によって武家火消はすべて廃止され、代わりの消防組織として火災防御隊が設けられた。火災防御隊は兵部省に所属し、皇城(江戸城)の消防を担当すると定められたが、翌年には廃止されている。  (wikipedia・火消より)]

資料リンク
国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(安政4年・1857年)」(絵図左端・「紀伊殿」右に「定火消御役屋敷 米津小太夫」と記述されています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永3年・1850)」(絵図左端・「紀伊殿上屋敷」右に「定火消御役屋敷 小笠原順三郎」と記述されています。)

東京都立図書館 – 元治再刻今井谷市兵衛町赤坂全図(元治2[1865]再板)」(絵図左端・「紀伊殿」右に「定火消御役屋敷 花房釻之丞」と記述されています。)

豊川稲荷
[豊川稲荷東京別院(とよかわいなりとうきょうべついん)は、東京都港区元赤坂にある曹洞宗の寺院である。豊川稲荷 妙厳寺愛知県豊川市)の、唯一の直轄別院(飛び地境内)である。
沿革
大岡越前守忠相が豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として自邸で祀ったのを由来とする。
大岡家では、三河時代より豊川稲荷を信仰していたといい、越前守の時に、江戸下屋敷に吒枳尼天を勧請して祀ったといわれる。その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き移転先の屋敷で祀られた。
創建
江戸では稲荷信仰が盛んであったため、大岡邸では毎月「午の日」と22日には門を開けて、一般庶民の稲荷への参拝を許していたという。
その後、文政11年(1828年)、信徒の要望により、妙厳寺が一ツ木の大岡邸の敷地の内、4分の1(約250坪)を借り受け、豊川稲荷の江戸参詣所を建立したのが、東京別院の創建とされる。江戸参詣所が設けられたことにより、一般信徒も参拝が毎日できるようになり、今までの大岡邸の屋敷稲荷は「奥の院」とされた。
明治9年(1876年)、東京府は、私有地で祀られる社堂への、無許可での一般参拝を禁止する布達を出した。これにより東京参詣所も一般参拝ができなくなり、大岡邸の吒枳尼天の分霊は、豊川の妙厳寺本院へ還された。2年後、府から許可が下り、一般参拝が再開された。
明治20年(1887年)、大岡邸の一角では手狭になり、堂宇の新・増築も困難であることなどから、現在地(元赤坂一丁目)に移転した。
信仰
大岡越前守は、江戸南町奉行としての活躍や、旗本から大名へ取り立てられたことでも知られる。それにあやかり江戸の豊川稲荷も、立身出世や盗難避け、失し物・失踪人などの効験で評判となる。川柳にも「石川は 盗み 豊川 盗ませず」と詠まれた。
また明治以降の赤坂は、料亭や芸者などが集まる花柳界が発展し、芸道を生業とする人々からの信仰も増えた。
境内
一歩足を踏み入れると都会の喧騒とは隔絶した世界が開ける。
●本殿 – 東京別院の本尊である吒枳尼天が祀られる。豊川本院の秋季大祭(11月22日)の晩、別院本殿では「おこもり会」が催される。かつて交通手段が不便だった折、豊川へ行けない信徒のために明治頃から始まったといわれる。
●境内社 – 「叶稲荷」は縁切り専門の稲荷。「融通稲荷」では10円の融通金を自由に持って返ることができ、1年後(または願が適った時)に利子を付けて返納する。小規模ながら「銭洗い弁財天」も祀られる。銭を洗うと数倍になって返ってくるといわれる。「大黒堂」は既に幕末に建てられていたが、長い間、本殿内で大黒天を祀る状態が続き、最近になり再建された。
●法輪閣 – 稲荷会館(信徒会館)の2階は「法輪閣」といわれ、釈迦如来が祀られる。東京別院の本堂にあたるのがここである。一般の法要の他に、「読誦会」「写経会」などの講習会が行われる。
山門・wikipedia-photo、本殿・wikipedia-photo、大岡廟(菩提寺の浄見寺から勧請された越前守の位牌を安置する)・wikipedia-photo、叶稲荷・wikipedia-photo、境内(三神殿舎前)・wikipedia-photo、銭洗い弁財天・wikipedia-photo、大黒堂・wikipedia-photo
Wikimedia Commons(ウィキメディア・コモンズ)には豊川稲荷東京別院の画像があります。  (wikipedia・豊川稲荷東京別院より)]

豊川稲荷 東京別院 – Google Map 画像リンク」、「豊川稲荷 本殿 – Google Map 画像リンク

カメラ西方向が豊川稲荷(赤坂門外定火消屋敷跡)です。

豊川稲荷境内のカメラです。

豊川稲荷境内初午のカメラです。

カメラ北北西方向が當山奥の院です。

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