赤坂弁慶堀際下水掛樋

マーカーは赤坂弁慶堀際下水掛樋です。

赤坂弁慶堀際下水掛樋
[「鮫が橋」は「鮫河橋」と書いて「さめがはし」と読みます。「鮫河」という小さな川に架かっていた橋の名でもあり、「鮫河」が流れていた町々の町名の上にも付けられていました。いまも「四谷」と「神宮外苑」を結ぶ道路の「迎賓館」脇の坂道が「鮫河橋坂」、坂を降り切った所にある「東宮御所」の門が「鮫河橋門」と、「鮫河橋」の名が残っています。
江戸地誌の『御府内備考』によりますと、「鮫河」は幅六尺(約1.8メートル)ほどで、町によって「下水堀」とか、「大下水」、「鮫河橋大下水」などと呼ばれていたようです。鮫河橋谷町・鮫河橋北町・鮫河橋表町・鮫河橋仲町(現・新宿区若葉二・三丁目・南元町)から流れ出た下水は、「鮫が橋」の先で紀伊徳川家中屋敷内(現・東宮御所)を通り抜け、赤坂へ出ますと「赤坂大下水」となって溜池の縁を流れ、芝の愛宕下で「桜川」に合流していました。  (「江戸下水道散歩 弐拾壱|東京都下水道局」より)]

絵図上から町屋(元赤坂町)大下水、土手、上水、土手が描かれ、最後の土手先が弁慶掘りです。(玉川上水留. [106]より)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図」(絵図上・溜池下に大下水が描かれています。大下水は紀伊殿上屋敷から元赤坂町を流れ玉川上水手前で玉川上水に並行して東方向に流れています。)

玉川上水留. [106] 玉川上水赤坂弁慶堀際下水掛樋模様替并町屋浚除地附板柵其外共御普請一件 慶応元丑年十二月より同ニ寅年三月」[6,7,17,18,19,61,62/95・紀伊徳川家上屋敷から流れる大下水(下流名・桜川)が玉川上水を渡り、弁慶掘りに洪水時落水させるための掛樋が描かれています。)

カメラ西南西方向が東京都下水道局管理道路でこの下に大下水が流れているようです。(Google Maps)