マーカーは赤坂二丁目交番前交差点です。
赤坂田町五丁目(桐畑)
[歌川広重 初代「名所江戸百景 赤坂桐畑」 安政4(1857)年(港郷土資料館蔵)
浮世絵は、中央に桐の木を配置した大胆な構図で描かれており、奥には溜池がみえます。溜池があった場所は、現在の外堀通り付近にあたります。
現在の赤坂二丁目、外堀通りに面した辺りには、溜池沿いに桐の木を植えた畑がありました。
広重の浮世絵に描かれた桐の木と溜池のかなたには、雷雨を思わせる黒雲が美しく描かれています。
この辺りは盛り場としてにぎわっていましたが、明治のころには「赤坂田町」となり、昭和41(1966)年に現在の町名「赤坂二丁目」となりました。
江戸城の外堀だった溜池の水は江戸時代初期には上水としても使われていましたが、埋め立てが進み、現在は外堀通りに「溜池」の名称のみが残っています。明治初年のころには、長さ約13町12間(約1.4キロメートル)、幅は広いところで約25間(約45メートル)であったと「東京通史」に記録されています。赤坂の桐畑は、この溜池を補強する役割があったようです。 (「港区公式ホームページ/みなとアーカイブ 浮世絵でみる今昔08 赤坂桐畑」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永3年・1850年)」(絵図中央上・溜池下に赤坂田町五丁目とその右に桐畑ト云と描かれています。)
玉川上水樋管
「玉川上水留. [5] 玉川上水赤坂柳堤田町三丁目より五丁目并溜池端通共樋枡御普請一件 天保四巳年二月より同五午年八月迄 御普請方 分冊ノ四」(89.90/110・赤坂田町五丁目周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
「玉川上水留. [59] 玉川上水赤坂柳堤通仮樋枡御修復一件 安政三辰年四月より同十月 分冊ノ四」(17,18/75・赤坂田町五丁目周辺の玉川上水樋管が描かれています。)
絵本江戸土産 – 赤坂桐畑 永田馬場 山王社(拡大図)
カメラ位置は赤坂二丁目交番前交差点で、カメラ東南東方向に桐畑があったようです。