赤坂田町(玉川上水樋管)・成満寺(時の鐘)跡

マーカーは成満寺(時の鐘)跡です。

赤坂田町・成満寺(時の鐘)
[寛永十二年(1635)赤坂門や堀の普請の土置場として田町という地名があった。低地の田地という意味だった。十五年に地割りが行われて一~三丁目が町屋に、正保年間(1644~47)四~五丁目が出来た。現・赤坂一~三丁目である。寛文十二年(1672)ここに移転してきた成満寺に時の鐘があつた。
 成満寺は田町二丁目四番地にあった。今の田町通りとみすじ通りにはさまれた月世界ビル(赤坂三丁目十番地)あたりと推定出来る。戦後八王子に移転した。成満寺の経緯は複雑である(『赤坂区史』)。  (「第44回 歴史散歩「時の鐘」 – nifty」より)]

赤坂三筋町
[十八世紀の初頭にかけて溜池の開発が進むと西側の低湿地地帯に町屋が生まれて行った。田町、中町、一ツ木町と三筋に展開したので赤坂三筋町と総称された。なかでも田町は料理屋や茶店が集中するところから食傷町とあだ名された。後にこれが麦飯と呼ばれる岡場所に発展していった。  (「江戸切絵図散策」より)]

赤坂一ツ木町
[永禄10年(1567)に、武州豊島郡貝塚領人継原を開発して人継村となり、天正18年(1590)の徳川家康の入府に際して、服部半蔵などで知られる、江戸城の警護等に当たった伊賀者の給地に下されて百姓町屋となりました。
元禄9年(1696)頃から、一ツ木村を「赤坂一ツ木町」と改めましたが、ほかに飛地が5ヶ所ありました。町奉行を務めた大岡越前守の下屋敷があったことも知られています。明治44年(1911)には赤坂の冠称を除いて「一ツ木町」となりましたが、昭和22年に「赤坂一ツ木町」となりました。  (「区立円通寺坂公園(赤坂5丁目2番47号)(PDF … – 港区」より)]

資料リンク

玉川上水樋管
玉川上水留. [2] 玉川上水赤坂柳堤田町三丁目より五丁目并溜池端通共樋枡御普請一件 天保四巳年二月より同五午年八月迄 御普請方 分冊ノ一」(17,18/67・田町三丁目~五丁目間の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [4] 玉川上水赤坂柳堤田町三丁目より五丁目并溜池端通共樋枡御普請一件 天保四巳年二月より同五午年八月迄 御普請方 分冊ノ三」(51,52/80・田町三丁目~五丁目間の玉川上水樋管が描かれています。)
玉川上水留. [5] 玉川上水赤坂柳堤田町三丁目より五丁目并溜池端通共樋枡御普請一件 天保四巳年二月より同五午年八月迄 御普請方 分冊ノ四」(10,11,89,90/110田町三丁目~五丁目間の玉川上水樋管が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永3年・1850年)」(絵図左上に赤坂伝馬町が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション - 赤坂溜池今井台麻布竜土青山辺一円絵図 : 天保元年(1831年)調」(絵図左上田町弐町目に成満寺が描かれています。)

東京市拾五区区分全図 第六 赤坂区全図 – 特別区協議会

カメラ西南西方向が月世界ビルで、この地に成満寺があったらしい。

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