マーカーは赤坂見附跡標柱です。
赤坂見附跡(外濠_(東京都))
[赤坂見附(あかさかみつけ)とは、いまの東京都千代田区紀尾井町・平河町にあたる地に存在した、江戸城の「江戸城三十六見附」のひとつ、及び現在の赤坂見附の跡地や東京メトロ赤坂見附駅付近一帯を指す地名である。見附とは主に城の外郭に位置し、外敵の侵攻、侵入を発見するために設けられた警備のための城門のことで、江戸城には外濠および内濠に沿って36の見附があったとされている。赤坂見附はそのうちのひとつで、他に現在に名を残すものとしては四谷見附(四谷)、市谷見附(市ヶ谷)などがある。赤坂見附は枡形門の形式で、これは江戸城の田安門、清水門などと同じである。現在の赤坂見附址にはこの城門は存在しない。現在見られる赤坂見附の遺構は、紀尾井町の国道246号沿いに残る石垣である。この赤坂見附跡の西側には弁慶堀が水を湛え、赤坂見附交差点は国道246号(大山道)と外堀通りの交点となっている。
赤坂見附址(石垣)・wikipedia-photo (wikipedia・赤坂見附より)]
[正面にある石垣は、江戸城外郭門のひとつである赤坂御門の一部で、この周辺は「江戸城外堀跡」として国の史跡に指定されています。江戸城の門は、敵の進入を発見する施設であるため「見附」とも呼ばれ、ふたつの門が直角に配置された「枡形門(ますがたもん)」の形式をとっています。赤坂御門はその面影をほとんど残していないが、現在でも旧江戸城の田安門や桜田門には同じ形式の門をみることができます。赤坂御門は、寛永13年(1636)に筑前国福岡藩主黒田忠之により、この枡形石垣が造られ、同16年(1639)には御門普請奉行の加藤正直・小川安則によって門が完成しました。江戸時代のこの門は、現在の神奈川県の大山に参拝する大山道(おおやまみち)の重要な地点でもありました。明治時代以降、門が撤廃され、その石垣も大部分が撤去されましたが、平成3年に帝都高速度交通営団による地下鉄7号線建設工事に伴う発掘調査によって地中の石垣が発見されました。現在、この石垣の下には、発掘調査によって発見された石垣が現状保存されています。 千代田区教育委員会 (「東京都千代田区の歴史 – 江戸城外堀跡 赤坂御門」より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 江戸城見附図 2巻. [2]」(コマ番号39-42/68・赤坂御門)
(拡大図)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 外桜田永田町絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図中央下に赤坂御門が描かれています。)、「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 赤坂絵図(嘉永三年・1850年)」(絵図左上に赤坂御門が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四之二(文久元年(1861年) 調)」(絵図中央・赤坂御門と描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内往還其外沿革図書. 四」( コマ番号55~57/87・絵図ページ左上に赤坂御門が描かれています。)
「東京図測量原図 : 五千分 – (内題)東京府武蔵国麹町区紀尾井町及赤坂区田町近傍(五千分一東京図測量原図のうち)(明治16・1883年)」(地図中央右に赤坂門が描かれています。)
狂歌江都名所図会 – 赤坂御門 溜池(拡大図)
「赤坂見附跡 – Google Map 画像リンク」、「赤坂御門の石垣と刻印 – Google Map 画像リンク」
カメラ北方向が赤坂見附跡で、交通標識右に赤坂見附跡案内柱があります。
赤坂見附跡石垣(Google Map 画像)
赤坂見附跡案内碑前のカメラです。