マーカーは鹿島藩鍋島家上屋敷跡です。
関連リンク – 鹿島藩鍋島家下屋敷跡
「国立国会図書館デジタルコレクション – 東京市史稿. 市街編49(1960年東京都出版)」の「江戸藩邸沿革」のP505・コマ番号296/553に鹿島藩屋敷の変遷について記載されています。「上屋敷 麻布龍土」がこの地になります。
鹿島藩鍋島家
[鹿島藩(かしまはん)は、鹿島(佐賀県鹿島市)周辺を領有した佐賀藩の支藩である。佐賀藩の初代藩主・鍋島勝茂の弟・忠茂が慶長16年(1610年)、佐賀藩より2万石分与され、忠茂が元々領していた下総国香取郡内の5000石を加え、2万5000石で立藩し、常広城を拠点とした。寛永19年(1642年)、第2代藩主・正茂の時、佐賀藩主・勝茂は自身の九男・直朝を嗣子のない正茂の養子に据えようとしたが拒まれたため、鹿島の領地2万石を返還させた。以後、正茂は下総香取5000石の旗本に帰した。同年に結局、勝茂は直朝にその領地2万石(佐賀県の内高となる)を与えた。9代藩主の直彜は文化4年(1821年)に鹿島城を築き、居城としている。
明治4年(1871年)、廃藩置県により鹿島県となる。その後、伊万里県・佐賀県・三潴県・長崎県を経て佐賀県に編入された。 (wikipedia・佐賀藩#鹿島藩(鹿島鍋島家)より)]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 青山渋谷絵図(嘉永六年・1853年)」[絵図右下に伊達遠江守上屋敷の右上に鍋島熊次郎(鍋島直彬)上屋敷が描かれています。]
「国立国会図書館デジタルコレクション – 青山辺場末絵図 : 寛保延享之頃(1741年-1748年)」[コマ番号2/3・絵図中央右に鍋島備前守(鍋島直郷)と描かれています。]
「東京都立図書館アーカイブ – 東京市麻布区(出版年-1911.8)」(地図左上に新竜土町が描かれています、その4番から11番までが鹿島藩鍋島家上屋敷跡になると思います。)
カメラ西南西方向道路から右側二棟目が教運寺で、そこから南側国立新美術館までが鹿島藩鍋島家上屋敷跡になると思います。