マーカーは今戸橋跡親柱です。
今戸橋跡
[山谷堀最下流の橋を今戸橋という。橋を越える通りは旧奥州街道で、浅草御門から蔵前、浅草を通り宇都宮までは日光街道と同じ道(現江戸通り)であった。しかし、文禄3年(1594)千住大橋が架設され、道筋は今までの浅草追分(言問橋西詰め交差点)から橋場に至り、橋場の渡しを使って大川を渡り常陸国へ出ていたのが、浅草追分.小塚原.千住と変更になった。 (「今戸橋」より)]
[山谷堀に架かる一番下流の橋が今戸橋で北岸が今戸(町)になる。この辺りは瓦等を焼く窯屋が多い。天正年間に千葉氏の家臣が住み着いて瓦や土器を焼いたのが始まりだという。江戸名所絵図にも「都鳥ノ名所ナリ 此辺瓦ヤクナリ」と書かれている。千住大橋が出来るまでは、浅草御門から続く日光街道で「橋場の渡し」につなぐ重要な町であった。
今戸橋は山谷堀に架かる最下流の橋。ここから上流に向かって、聖天橋、吉野橋、正法寺橋、山谷堀橋、紙洗橋、地方新橋、地方橋、日本堤橋の9橋が有った。今戸橋で船を下りて、山谷堀の土手を吉原まで歩きます。 (「第163話落語「今戸の狐」(いまどのきつね) – 落語の舞台を歩く」より)]
今戸橋資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [45]貮拾貮下」(コマ番号10・地図中央左方向に山谷掘、今戸橋が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション - 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図」
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「山谷堀今戸橋慶養寺」(17-47)、「今戸焼」(17-46)
山谷堀今戸橋慶養寺
[図会左ページに山谷堀と今戸橋、右ページに慶養寺が描かれ、図会から外れて左に本龍院(待乳山聖天)があります。]
今戸焼(拡大図)
カメラ北北東方向に今戸橋の親柱が残されています。