土手の伊勢屋、土手の中江

マーカーは土手の伊勢屋、土手の中江です。

土手の伊勢屋
[『土手の伊勢屋』は、今では珍しい江戸前の天丼屋だ。昭和2年に建てられた家屋は、戦災でも焼けることなく残り、創業以来100年以上、変わらぬ風貌を今に残している。店内には、明治から昭和初期の骨董品が多く残されており、当時にタイムスリップしたかのようだ。江戸前の天麩羅は、強火の胡麻油で揚げるのが特徴。天丼は「イ」「ロ」「ハ」の3種類。丼からはみ出すくらい大きな穴子や海老がのった、豪快な天丼だ。一日百食限定で、休日には行列ができ、閉店1時間前(13時と19時)までに並んだところで終了になる。並んででも食べる価値のある店なので、ぜひ行ってみて!  (「土手の伊勢屋(ドテノイセヤ) – MapFan Web(マップファン) 」より)]

土手の中江
[文明開花の中、ハイカラなグルメとして桜鍋が生まれました。当時、遊郭があり、粋な歓楽街として栄えていた吉原には桜鍋を売る店が二十軒以上も軒を連ね、吉原名物、数少ない東京の郷土料理として、吉原遊郭行き帰りの粋客から朝・夜問わず食されたといいます。明治38年に中江もその中の一店舗として暖簾を掲げました。遊郭からの朝帰りのお客様、昼食、夕方は遊郭へ繰り出す前の腹ごしらえ、そして深夜は遊郭帰りの夜食にと、中江は一日中賑わっていたそうです。創業当時はライバル店がたくさんありましたが、現在吉原に残ったのは中江だけになってしまいました。
桜鍋には『味噌ダレ』がつきものです。淡白な桜肉にコクを与える味噌ダレですが、桜鍋に最初に味噌ダレを使ったのが中江の初代桾太郎です。つまり、中江は現在の桜鍋の元祖なのです。桜鍋は当時から滋養強壮に良いと言われていました。現代でもスタミナのつく料理を食べることを『馬力をつける』と言いますが、これは吉原の桜鍋を食べることが語源です。
土手の中江という愛称をいただいておりますが、理由をご存知ですか?
当時、中江の前は堀になっていて土手がありました。後に区画整理で掘は埋められたのですが、今でも堀と土手があった頃にちなんで「土手の中江」と呼ばれています。ちなみに、中江の前の道路は「土手通り」です。映画『吉原炎上』のラストで主人公が土手を人力車に乗って去っていくシーンがありますが、その土手が中江の店の前にあった土手です。  (「創業明治三十八年 中江はこんなお店です – 桜なべ中江 」より)]

土手の伊勢屋 (どてのいせや) – 三ノ輪/天丼・天重 [食べログ]

桜なべ 中江 (ナカエ) – 三ノ輪/馬肉料理 [食べログ]

日本堤
[日本堤の名はもともと江戸時代に作られた土手道を指したもので、現在の土手通りにあたる。土手は、今戸橋(待乳山聖天付近)から箕輪浄閑寺にかけて、水路に沿って築かれていた。下流の山谷堀近辺では両岸に土手を築いていたことから「二本堤」と呼ばれるようになったという。吉原が移転してきてからは「吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれ、遊びに通う江戸っ子たちで賑わった。
歌川広重名所江戸百景』に描かれた日本堤。やや誇張されてはいるが、土手状に作られていた地形がよくわかる」・wikipedia-photo  (wikipedia・日本堤より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 府内場末其外往還沿革図書. [45]貮拾貮下」(コマ番号7・絵図中央吉原右に日本堤が描かれています。)

カメラ北方向が土手の伊勢屋です。
土手の伊勢屋 – Google Map 画像リンク

カメラ北方向中央が土手の中江で、右に土手の伊勢屋。
桜なべ 中江 浅草吉原本店 – Google Map 画像リンク

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