大垣藩戸田家下屋敷跡

マーカーは大垣藩戸田家下屋敷跡です。

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戸田氏鉄
[戸田 氏鉄(とだ うじかね)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。近江膳所藩第2代藩主、摂津尼崎藩主、美濃大垣藩初代藩主。大垣藩戸田家2代。戸田一西の長男。
天正4年(1576年)3月、三河国二連木(現・愛知県豊橋市仁連木町)にて、戸田一西の長男として誕生。
はじめ徳川家康の近習として仕えた。文禄4年(1595年)10月21日、従五位下采女正となる(後に従四位下)。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いに従軍。慶長8年(1603年)、父・一西の死により家督を継ぎ、近江膳所藩主となる。大坂の陣では居城の膳所城の守備に徹し、戦後元和2年(1616年)摂津尼崎5万石へ移封される。寛永12年(1635年)7月28日、美濃大垣10万石へ移封された。
寛永14年(1637年)の島原の乱では、寄せ手の一武将として出陣し、実戦経験の少ない幕府軍を率いて乱を鎮圧した。
江戸幕府に対しては寛永10年(1624年)の大坂城修築、島原の乱においての戦功、4代将軍・徳川家綱誕生の際の臍の緒を切断する箆刀の役を務めるなど奉仕する。一方、藩政においても新田開発や治水工事などに大きな成功を収め、大垣藩の藩政を安定に導いた。また教育にも力を注ぎ、修養を説いた『八道集』などを著し学問を充実させた。
慶安4年(1651年)11月28日に隠居した後は、入道して常閑と号した。明暦元年(1655年)、80歳で大垣において死去。家督は長男の氏信が継いだ。
藩政の成功を賞して、現在の岐阜県大垣市大垣公園大垣城跡)に、氏鉄の銅像がある。父一西以来、代々の子孫は大垣の常葉神社にて祭神として祀られている。また、尼崎藩主として尼崎城築城と共に行った治水事業の功績が称えられ、兵庫県尼崎市大阪市西淀川区の府県境を流れる左門殿川や左門橋として、その名を残している。  (wikipedia・戸田氏鉄より)]

国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図(嘉永六年・1853年)」(絵図四つ切右上・戸田采女正(戸田氏正)下屋敷が描かれています。)

国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [45]貮拾貮下(安政六年・1859年)」(コマ番号4/10・絵図中央左に戸田采女正(戸田氏彬)下屋敷・抱屋敷が描かれています。)

カメラ位置は竜泉一丁目交差点で、カメラ北方向道路を含む両サイドが大垣藩戸田家下屋敷跡になると思います。