マーカーは天獄院です。
天獄院
[天嶽院(浄土宗)は徳川家康の江戸移封と共に、三河国から移転、明暦の大火(1657)の後、市中のお寺の移転、整理があり、馬喰町から現在の地に移った。檀家は幕臣が多く、細井家との御縁もご門弟の幕臣の方の紹介であった。 (「浅草・天嶽院に細井平州の墓標を訪ねる」より)]
[江戸時代中期折衷学派の儒学者。享保13年(1728)尾張国知多郡に生まれた。名は徳民。通称甚三郎。延享年間に名古屋に出て、中西談淵に学び、やがて江戸に出て芝三島町(港区芝大門1丁目)に談淵とともに業柱社をおこした。上杉鷹山に招かれて藩校興譲館の教学振興に努め、藩政改革の教学面を指揮して、改革理念の普及、家臣団の統制に大きな役割をはたした。また、天明3年(1783)には、尾張名古屋藩に招かれて藩校明倫堂の督学兼継述館総裁となり、民衆強化に努めた。享和元年(1801)6月29日江戸尾張藩邸で没した。著書に「平洲小語」「詩経夷考」などがある。(東京都教育委員会より) (「猫のあしあと – 天獄院」より)]
資料リンク
「国立国会図書館デジタルコレクション – 〔江戸切絵図〕. 今戸箕輪浅草絵図」(絵図中央左方向・「海禪寺」下方向に「天獄院」が描かれています。)
「国立国会図書館デジタルコレクション – 御府内場末往還其外沿革圖書. [43]貮拾貮上」(コマ番号5/10・絵図四つ切左上に「天獄院」が描かれています。)
「江戸名所図会. 巻之1-7 / 斎藤長秋 編輯 ; 長谷川雪旦 画図」・「海禅寺」(16-41)、「光明山天獄院解説・右ページ中程より」(16-44)
海禅寺(天獄院・拡大図)
[図会右ページ右上に「天こく院」と記述されています。]
カメラ北北西方向が天獄院山門です。