浅草寺(新奥山)

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新奥山
[江戸時代、今の浅草寺本堂の西北一帯は、俗に「奥山」と呼ばれ、江戸随一の盛り場として大道芸人や見世物小屋で大いに賑わう著名な場所であった。奥山の名の由来は記録にないが、おそらくその位置が本堂の奥にあることから名付けられたと考えられる。
  明治以後、その賑わいは浅草寺西側の浅草公園六区へと移り、六区は日本一の興行街・映画のメッカとして栄えたが、その前身が奥山だったといわれる。現在は「新奥山」として整備され、諸碑が建立されている。この中には、往時の浅草の賑わいを伝える記念碑も建てられている。  (「浅草寺ホームページ – 諸碑」より)]

[浅草公園史跡めぐり  第4番札所
 奥山の地名には諸説があり、さだかではない。享保18年(1733)浅草寺境内のこの地に千本櫻が植継がれた頃より盛場となって栄えはじめ、江戸時代から明治初期にかけ庶民の遊楽で賑わいを呈した。奥山には参詣人の憩の掛茶屋などと並び、すでに、貞享(1684)には宮地芝居が興行されていたという、宝歴(1751)では深井志道軒講談が名高く、下って曲独楽松井源水居合抜長井兵助が人気を集め、異国の珍島奇獣が渡来すれば、いち早く奥山の見世物になったと、安本亀八が生人形と書き技を競い、猿芝居、犬芸、軽業手妻(奇術)をはじめ、時にはヨーロッパサーカスの小屋がかかったこともある。矢場女(揚弓場)の嬌声、水茶屋揚子見世の看板娘は春信歌麿などの浮世絵になって評判となった。奥山の取締は江戸町火消の頭で有名な新門辰五郎であった。
 明治17年(1884)、浅草公園埋立造成地の第六区に奥山第五区の諸出店、諸興行小屋が移転されることになって、東京一の大衆娯楽の集団地「六区興行街」が誕生するに及んだ。奥山の名は消えても盛場浅草の歴史、いな日本の民俗風物史の変遷を知る上に極めて貴重である。 昭和52年(1977) 浅草公園町会建札  (「東京都台東区の歴史 新奥山(浅草寺)」より)]

力石
[力石(ちからいし)と読み、「さし石」とも呼ばれる。江戸時代後期、酒屋・米屋の人足たちの間で、酒樽や米俵を曲芸のように持ち上げて、その力を競うことが流行した。ここにある力石は、境内で行われた「力くらべ大会」で競い持ち上げられたものである。
  「力石・熊遊(くまゆう)の碑」は、明治7年(1874)、熊次郎という男が持ち上げた百貫(約375キロ)ほどの力石であり、新門辰五郎(しんもんたつごろう)らがその記念として建てた。  (「浅草寺ホームページ – 諸碑」より)
力石・力石 – 「もののはじめblog – Gooブログ」より画像リンク]

瓜生岩子像
[瓜生岩子(うりゅういわこ。1829~97)は福島県会津に生まれ、その半生を社会福祉事業にささげた。児童教育や女性・貧民救済などの社会福祉事業の推進に努め、晩年の明治29年(1896)には、藍綬褒章を女性としては初めて受賞している。
  この像は、岩子の善行をたたえ、実業家の渋沢栄一(1840~1931)らの助力のもと、明治34年(1901)に完成した。教育家として女性の地位向上に尽力した下田歌子(1854~1936)の撰文が台座に刻まれている。  (「浅草寺ホームページ – 諸碑」より)]

新奥山諸碑の配置参考サイトー新奥山八つの碑

新奥山 – Google Map 画像リンク

カメラ位置は瓜生岩子像前で、カメラ南東方向に力石がある。

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